大矢野 松右衛門(おおやの まつえもん、? - 寛永15年2月28日1638年4月12日))は、江戸時代前期の人物。

島原の乱の一揆勢の首謀者の一人。天草十七人衆の一人(天草五人衆のひとりでもある)。キリシタン

概要 編集

『天草騒動』などの実録物によると、本名を大矢野作左衛門といい、父は本多忠朝の家臣・大矢作左衛門で、自身も主君・本多忠朝の剣術指南役であったという。また、大坂冬の陣にて父が戦死したため本多家から退去し、忠朝の怒りをおそれ古里の天草へ逃れて帰農したという。

のち島原の乱の首謀者のひとりとして一揆勢の指揮をとり、原城籠城戦の際は浮武者頭として、山善左衛門とともに遊軍2000人を率いた[1]。最期は詳細不明だが、『天草騒動』によると、原城落城時に長岡帯刀(細川藩家老・米田是季の子)と一騎討ちの末、戦死したという。

脚注 編集

  1. ^ 『耶蘇天誅記』『寛永平塞録』等多数の史料にそのように記されている。

出典 編集

  • 『天草騒動』(1692年、田丸具房(常山)著)
  • 『西海の乱・天草民衆運動史研究(下巻)』(西海文化史研究所、1995年、倉田文史/著)