大阿仁村事件(おおあにむらじけん)とは、1945年10月22日に起こった事件である。

秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村(現在の北秋田市)の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が重傷(続報では軽傷)を負った。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した[1]

事件の処理 編集

警察は朝鮮人に傷害を負わせた者は必ず処罰する事を、朝鮮人に約束して納得させ全員寮に帰らせた。午後5時には附近の山林に避難中の集落の人も警察官の保護を受けて、ことなく住家に帰った。また、朝鮮人労働者も全員所属の阿仁鉱山に帰り24日から労働することになり、事件は収束した。警察では、双方に傷害を受けた者が出ているのだから、傷害罪として双方の関係者の取調べに着手するとした[2]

越前谷武左衛門の記録 編集

越前谷武左衛門の『北緯40度マタギの里 思ひ出の八十余年』では事件発生時、近辺の萱草集落での体験談が記載されている。

彼は22日、阿仁合から帰宅途中に大勢の朝鮮人から追い越された。家に帰ると近所の8人が家の前に集まっていた、朝鮮人が阿仁伏影の集落に大勢押しかけ暴れているから、応援を頼むと帰りを待っていたという。彼は応援団の頭となった。1人を自転車で伏影に向かわせ様子を探り、さらに佐山鉱山にいて親しくしていた鄭在善という朝鮮人を電話で呼んで通訳として来てもらった。(越前谷武左衛門は家業の農業に加え佐山鉱山の事務員として勤務し、頻繁に鷹巣の銀行と往復していた。また、佐山鉱山は朝鮮人を雇っていたが、教養と親睦の場を設け、映画を見せたりと福利厚生は充実していた[3]。)様子を見に行った若者の報告では、川向かいから見る限りでは大騒ぎのようではなかったとのことであった。しばらくたつと、下の県道を大勢の朝鮮人や警官達が歩いて行く。彼が一人で警察の署長に話を聞くと、騒ぎが収まったので引き上げて行くところだという。更に、作業用でもナタを腰にして来ると武器と見られるから危険だということであった。彼は仲間に来るなと手で合図して彼らが通り過ぎるのを見送った。

この事件は、阿仁鉱山で強制労働をさせられていた朝鮮人たちが終戦で解放されたが、帰国までの間、食料不足から農家の栗林を廻って実を拾ったりしていた。伏影の栗林で木を揺さぶっていたのを林主の人がとがめたが止めないので、鉈鎌を振っておどかそうとしたところ、鎌が1人の体にあたり傷つけたのでその林主を捕らえて連れて行こうと大勢が押しかけたものであった。その日は林主と鉈男と思われる人を連れて行ったが、どうやら別人のようだったとの事であった。朝鮮人たちはその翌日も来ていた。そういう状況なので、しばらく伏影の人は裏山から山道を通って通行していた。

その後、彼が子供2人を連れて栗拾いに行くと、朝鮮人が2人栗を拾っていた。1人が木に登っていたので「木をゆするな」と叫ぶと、じっと子供達を見ていたが、木から降りた。朝鮮人の1人は年輩の人なので故郷に残して来た子供のことを思い出しているのではないかと思い、拾ったものは持って帰れと言うと、素直に帰って行った。この年は、どこの家の栗林にも朝鮮人が来たので朝早く拾わなければならなかった[4]

鄭在善の証言 編集

越前谷武左衛門と親しくしていて、佐山鉱山にいた鄭在善は朝鮮半島で小学校の教員をしていたインテリであった。彼は南洋捕虜監視員の指名募集に身の危険を感じて応ぜず、知り合いが出資をしていた佐山鉱山に潜り込んだ経歴を持つ人物である[5]。彼は次のような証言をしている。

10月の頃、古河阿仁鉱山の第一陣が翌日帰国することが決まった日だった。古河の寮にいた若い同胞7、8人が伏影というところにクリ拾いに行った。ところが持ち主の老人は朝鮮人が解放されたなんてことも良く分からなかったのだろう。戦時中と同じ調子で「この朝鮮コが」とナタを抜いてかかった。若者たちは石を投げて老人を追い払った。そのあとに、日本人の青年が来て柔道で一人、二人投げ飛ばしたが、みんなで寄ってたかってしばり上げてしまった。寮にいた同胞たちは「明日は最後だから徹底的に暴れてやれ」といきまいたということだ。

鄭在善が夜に寮に行ってみると、みなハメ板を外して畳の上でたき火をしていた。鄭が「火事になるじゃないか」と言っても「いままで俺たちがやられたことを考えたら、お釣りがくる」と相手にならない。仕方がないから私もハメ板をはずして火にあたりながら「明日なにかやるらしいが、おれもやるから教えてくれ」と聞くと「鉱山事務所の周囲にある石を投げてから、事務所を焼くんだ」ということだった。「まだ残る同胞もいるんだ、やめてくれ」と言っても「何を先生みたいなことをいうんだ」とどうにもならない。翌日、帰国する同胞を見送りに来た米内沢に住んでいた老人がいた。この人は朝鮮にいたころ独立運動で投獄された経験もある闘士だった。彼は泣きながら朝鮮民族の苦難の歴史を話した。そして「祖国は解放された、諸君は大きい気持ちでおとなしく帰ってくれ」と訴えた。みなはシュンとなって、そのままおとなしく汽車に乗った[6]

脚注 編集

  1. ^ 秋田魁新報、1945年10月23日
  2. ^ 秋田魁新報、1945年10月25日
  3. ^ 『マタギの里 山村の八十年 』、越前谷武左衛門、1987年、p.230-232
  4. ^ 『北緯40度マタギの里 思ひ出の八十余年』、越前谷武左衛門、p.301-303
  5. ^ 『釈迦内柩唄』、水上勉、新日本出版社、2007年、p.148
  6. ^ 『釈迦内柩唄』、水上勉、新日本出版社、2007年、p.152-154

参考文献 編集

  • “栗拾ひから暴行”. 秋田魁新報. (1945年10月23日,10月25日)