奥田 木白(おくだ もくはく、寛政12年(1800年) - 明治4年2月13日1871年4月2日))は、江戸末期から明治初期の陶工赤膚焼の中興の祖として知られる。

経歴 編集

大和国郡山城下(現奈良県大和郡山市)の堺町で生まれる。幼名は亀松といい、名を佐兵衛、のちに武兵衛と改めた。奥田家は堺町で郡山藩御用小間物商「柏屋」を営んでおり、木白は平素から茶を嗜み、楽焼などを焼いて楽しんでいたが、後に家業をやめて、陶工になった。木白という名前は、屋号であった「柏屋」の「柏」を二つに分けて称した名前で、別号には木々斉、五行庵などがある。

作風 編集

「仁清写し」「里恭写し」などが得意で、また「奈良絵風」のものや、一刀彫の味を陶器で写すことにも励んだ。木白や息子の二代木白の残した業績は大変に大きく、地方窯であった赤膚焼を、芸術性ある名陶として、広く世に知らしめた。古瀬堯三窯が所蔵していた木白の使用した型などの一部は盗難に遭い、現在も行方不明となっているものがある。

著作 編集

  • 楽焼之口伝控帳
  • 家伝覚書
  • 赤膚東竃由来
  • 赤膚山焼由来書
  • 江府往来日記

([1])

脚注 編集

  1. ^ 雑誌『陶説』 558号 1999年9月号 日本陶磁協会「近世の茶碗(136)奥田木白」黒田和哉