孟 攀麟(もう はんりん、1204年 - 1267年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。

生涯 編集

孟攀鱗の曾祖父孟彦甫は金朝に仕えて西北路招討司知事の地位にあった人物で、死刑に相当する罪状で捕らえられてきた者達について、公正な審理を行って死罪を免じたという逸話が残されている。また祖父の孟鶴、父の孟沢民はみな金朝の進士であった[1]

孟攀鱗もまた幼い頃から文書を綴ることを得意とし、奇童と呼ばれていたという。1230年庚寅/正大7年)に進士となり、朝散大夫・招討使の地位を授けられたが、1232年壬辰/正大9年)より金朝の首都開封の包囲戦が始まったことから、平陽に移住した。1246年丙午)よりモンゴルに仕えて陝西帥府詳議官に任じられ、長安に移住した。クビライが即位した後の中統3年(1262年)には翰林待制・同修国史の地位を授けられている[2]

至元年間の初めにクビライに召し出され、太廟・礼楽・学校・科挙の整備等を行うよう進言したという。そこで、クビライは孟攀鱗に宗廟の祭祀にかかる事務を委ねている。その後、病を得て長安に戻ると陝西五路四川行中書省事に任じられたが、至元4年(1267年)に64歳にして亡くなった[3]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻164列伝51孟攀鱗伝,「孟攀鱗字駕之、雲内人。曾祖彦甫、以明法為西北路招討司知事。有疑獄当死者百餘人、彦甫執不従、後三日得実、皆釈之。祖鶴・父沢民、皆金進士」
  2. ^ 『元史』巻164列伝51孟攀鱗伝,「攀鱗幼日誦万言、能綴文、時号奇童。金正大七年、擢進士第、仕至朝散大夫・招討使。歳壬辰、汴京下、北帰居平陽。丙午、為陝西帥府詳議官、遂家長安。世祖中統三年、授翰林待制・同修国史」
  3. ^ 『元史』巻164列伝51孟攀鱗伝,「至元初、召見、條陳七十事、大抵勧上以郊祀天地、祠太廟、制礼楽、建学校、行科挙、擇守令以字民、儲米粟以贍軍、省無名之賦、罷不急之役、百司庶府統於六部、紀綱制度悉由中書、是為長久之計。世祖悉嘉納之、咨問諄諄。後論王百一・許仲平優劣、対曰『百一文華之士、可置翰苑;仲平明経伝道、可為後学矜式』。帝深然之。又嘗召問宗廟・郊祀儀制、攀麟悉拠経典以対。時帝将親祀、詔命攀鱗会太常議定礼儀、攀鱗夜画郊祀及宗廟図以進、帝皆親覽焉。復以病請西帰、帝令就議陝西五路四川行中書省事。四年卒、年六十四。延祐三年、贈翰林学士承旨・資徳大夫・上護軍・平原郡公、諡文定」

参考文献 編集

  • 元史』巻164列伝51孟攀鱗伝
  • 新元史』巻185列伝82孟攀鱗伝