孫 鍾(そん しょう、生没年不詳)は、東晋裴啓中国語版著『語林中国語版(裴子語林)』、南朝宋の皇族の劉義慶著『幽明録中国語版[1]沈約の『宋書[2]代の許嵩中国語版著『建康実録』、南宋の『異苑』、『読史方輿紀要』[3]などに登場する後漢末の人物。三国時代を建国した孫氏一門。孫羌・孫堅孫静の父と記述されている。

概要

編集

それによると、孫鍾は呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)の売りの商人であった。はやくから父を亡くして母とふたりで暮らしおり、親孝行であったという。ある年に凶作の飢饉の状況であり、彼は生き延びるために、瓜を植えてそれを売って生計を立てていた。

ある日に、彼の家の前にとつぜん三人の少年が現れて、瓜が欲しいとせがんだ。迷った孫鍾自身も生活が苦しいものの、潔く少年らに瓜を与えた。瓜を食べ終わった三人の少年はまとめて孫鍾に「付近の山の下に墓を作って、あなたが埋葬されれば、その子孫から帝王となる人物が出るだろう」と述べた。まもなく三人の少年は白鶴に乗っていずこかに去っていった。

歳月が流れて、孫鍾が亡くなると、かつて少年らが述べた付近の山の下に埋葬されたが、当地からたびたび光が見えて、五色の雲気が昇ったという。

脚注

編集
  1. ^ 現在は散逸。
  2. ^ 『宋書』巻二十七 志第十七符瑞上「孫堅之祖名鍾、家在呉郡富春、獨與母居。」
  3. ^ 孫鍾の諱と蔣山(鍾山)と関連性があると伝わる。