宮崎太一
宮崎 太一(みやざき たいち、1902年2月1日 - 1954年10月8日)は、日本の厚生官僚。引揚援護庁長官、厚生事務次官を経て、社会保険診療報酬支払基金理事長在任中死去した。
人物・経歴
編集石川県羽咋町出身。石川県師範学校を経て[1]、1925年東北大学法文学部卒業、法学士。1930年内務省入省[2][3]。1941年社会保険局監理課長[4]。1942年勤労局動員課長[5]。終戦後、厚生省保険局長を経て[6]、1949年引揚援護庁次長[7]。1950年引揚援護庁長官[8]。
1951年厚生事務次官[9]、引揚同胞対策審議会委員[10]、社会保障制度審議会委員[11]、郵政審議会委員[12]、科学技術行政協議会委員、中央青少年問題協議会委員[13]、国立公園審議会委員 、中央優生保護審査会委員、中央身体障害者福祉審議会委員、中央児童福祉審議会委員[14]。
1953年退官[15]、人口問題審議会委員[16]、結核予防審議会委員[17]。1954年社会保険診療報酬支払基金理事長[18]、在外財産問題審議会委員[19]、厚生統計協議会委員[20]、医薬関係審議会委員[21]。同年腎臟病のため死去[22]。叙従四位、勲三等旭日中綬章追贈[23]。
著書
編集参考文献
編集- 『宮崎さんの思い出』「宮崎さんの思い出」刊行会 1956年
脚注
編集- ^ 宮崎さんの思い出 図書 「宮崎さんの思い出」刊行会 [編] 「宮崎さんの思い出」刊行会, 1956
- ^ 国民健康保険 5(12)(国民健康保険中央会, 1954-11)
- ^ 官報 1932年09月30日
- ^ 官報 1941年10月24日
- ^ 官報 1942年11月02日
- ^ 官報昭和22年本紙第6144号 53頁
- ^ 官報昭和24年本紙第6784号 244頁
- ^ 官報昭和25年本紙第7116号 413頁
- ^ 官報昭和26年本紙第7304号 285頁
- ^ 官報昭和26年本紙第7309号 394頁
- ^ 官報昭和26年本紙第7326号 333頁
- ^ 官報昭和26年本紙第7330号 445頁
- ^ 官報昭和26年本紙第7339号 677頁
- ^ 官報昭和26年本紙第7344号 58頁
- ^ 官報昭和28年本紙第8002号 88頁
- ^ 官報昭和28年本紙第8058号 195頁
- ^ 官報昭和28年本紙第8094号 535頁
- ^ 社会保険旬報 (403) 雑誌 (社会保険研究所, 1954-09)
- ^ 官報昭和29年本紙第8248号 59頁
- ^ 官報昭和29年本紙第8266号 437頁
- ^ 官報昭和29年本紙第8277号 74頁
- ^ 週刊社会保障 8(11);1954・11 雑誌 (法研, 1954-11)
- ^ 官報昭和29年本紙第8331号 124頁