寛文長崎大火(かんぶんながさきたいか)は寛文3年に、長崎で発生した大火災

出火編集

寛文3年(1663年)3月8日の巳の刻に、筑後町で火災が発生。その火は北風に煽られ、周囲の町へと広がっていき、長崎市中のほとんどを焼き尽くす大火災となった[1][2][3][4]

この火災は筑後町に居住する浪人・樋口惣右衛門による放火が原因だった[4]。日頃から鬱々としていた惣右衛門が発狂して自宅の2階の障子に火をつけ、隣家の屋根に投げつけて発火させた。当時の家屋のほとんどの屋根は茅葺だったため火の回りが速く、市街57町、民家2900戸を焼き尽くす大災害となり[4]、長崎奉行所もこの時焼失した[2]。『増補長崎略史』では「市街六十三町、民家二千九百十六戸、及び奉行所・囚獄・寺社三十三ヶ所を焼亡す。その間口延長二百二十九町三十間、災いを蒙らざる者は金屋町・今町・出島町・筑後町・上町・中町・恵比寿町の幾分にして、戸数わずかに三百六十五戸のみ」とある[1][2]。この火事は放火された日の翌朝午前10時まで約20時間続いた[4]

火災後編集

この後、放火の犯人である惣右衛門は捕らえられ、焼け出された人々の前を引き回された上で火刑に処せられた[1]

この火災は長崎の町が出来てから最大の災厄で、焼け出された町人達はその日の糧にも窮することとなった。

これに対し、当時の長崎奉行島田守政は、幕府から銀2000貫を借り、内町の住民に間口1間あたり290匁3分(銀60匁=1両=約20万円)、外町の住民に同じく121匁から73匁の貸与を行い、焼失した住宅の復旧を図った[5][6]。また、焼失した社寺に銀を貸与し、近国の諸藩から米を約16,000石購入して被災者に廉価で販売するなどの緊急対策を行った。この時の借銀は10年賦だったが、10年後の延宝元年(1673年)に完済された。

また、島田は長崎の町の復興に際し、道路の幅を本通り4間、裏通り3間、溝の幅を1尺5寸と決め、計画的に整備していった。この時に造られた道幅は、以後も長崎の都市計画の基本となり、明治時代以後に道幅が変更されたところはあるが、旧市街にそのまま残されていて、独特な町並を形成している[3][4][5]

本五島町の乙名倉田次郎右衛門は、かねてより長崎の町の水不足を案じていたが、この火事の際の消火用水の不足を知り、私費を投じて水道を開設することを決意[7]。延宝元年(1673年)に完成した倉田水樋は、200年余にわたって長崎の町に水を供給し続けた[8]

脚注編集

  1. ^ a b c 「寛文長崎大火」赤瀬浩著 『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ、62頁。
  2. ^ a b c 原田博二著 『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、16-18頁。
  3. ^ a b 「内町・外町」 原田博二著 『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、116-118頁。
  4. ^ a b c d e 「寛文大火」 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、192頁。
  5. ^ a b 赤瀬浩著 『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ、72-74頁。
  6. ^ 「内町」は地租を免ぜられた町で、「外町」はそれ以外の町。
  7. ^ 「倉田次郎衛門」 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社、238頁。
  8. ^ 『長崎 歴史の旅』 外山幹夫 朝日新聞社、77頁。

参考文献編集