小幡昌高
小幡 昌高(おばた まさたか)は、戦国時代の武将。上野国峯城主・小幡憲重の三男。
生誕 | 未詳 |
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死没 | 未詳 |
別名 | 民部助、播磨守 |
主君 | 武田信玄→勝頼→北条氏直→上杉景勝→最上義光 |
氏族 | 小幡氏 |
父母 | 父:小幡憲重 |
兄弟 | 信真、信高、昌高、昌定、信秀、武田信豊室、高田信頼室 |
生涯
編集父・憲重と兄・信真は武田氏配下の上野先方衆であり、昌高も武田氏に仕えた。永禄12年(1569年)以前に比定される穴山信君書状の宛名に見える「小幡民部助」が史料上の初見である[1]。諱は同時代の史料からは確認できないが、『小幡氏歴代法名記録』より「昌高」とされる。諱のうち「昌」は武田氏の偏諱を受けたものと考えられる。昌高は兄の信真や信高とは別に、独自に武田氏より参陣を求められる立場にあったとされる[1]。天正3年(1575年)5月に比定される「保小」宛ての小幡信真書状には、信真自身が病気のため参陣できないが、代わりに一族の播磨守らを参陣させることを伝えており、この播磨守が昌高であると考えられている[2]。このことから昌高は、小幡一族の中でもかなり有力な立場にあったと考えられる。なお、前年7月には民部助の受領名であることが確認されていることから、天正2年7月以降から翌3年5月の間に受領名を変更したと推測される。[要出典]同9年(1581年)3月には兄・信真より甘楽郡南端の山中(現・神流町)の防衛を命じられ、同地に在番している[1]。
天正10年(1582年)に織田信長の武田征伐で甲斐武田氏が滅亡すると、兄と共に後北条氏に従う。同18年に小田原征伐により後北条氏が滅ぼされると上杉景勝に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には最上氏に仕えている[1]。翌6年までの動向が確認されるが、その後の動向は不明である。