小早川繁平
戦国時代の武将。安芸の国人領主。沼田小早川氏当主。小早川正平の長男
小早川 繁平(こばやかわ しげひら、1542年 - 1574年)は、戦国時代の武将。安芸の国人領主。沼田小早川氏の当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文11年(1542年) |
死没 | 天正2年11月13日(1574年11月26日)[注釈 1] |
改名 | 又鶴丸(幼名)[注釈 2]、繁平 |
別名 | 又太郎[1]、元平(別名)[1] |
戒名 | 一珠院文室元緒[1] |
氏族 | 小早川氏 |
父母 | 父:小早川正平[1] |
兄弟 | 繁平、問田大方(小早川隆景室) |
生涯編集
天文12年(1543年)、父・正平が大内義隆の出雲の尼子氏遠征(月山富田城の戦い)に参加し、大敗を喫して撤退するときに戦死したため、僅か2歳で家督を継いだ。しかし幼少のために政務を執れず、また病弱であった。このため、天文12年(1543年)から天文13年(1544年)にかけて尼子晴久の侵攻を受けるが、家臣団が結束して籠城し、これを撃退した。ところが、繁平は天文13年には病気のために盲目となったため(実は盲目ではなかったという説もある)、家中の動揺を招いた。
大内義隆は、病弱かつ盲目である繁平では尼子氏の侵攻を防ぐことはできないと判断。天文19年(1550年)、義隆と毛利元就が介入し、繁平が尼子氏と内通したとして、居城の高山城から追放してその身柄を拘禁した。これに反対する家臣・田坂全慶らは誅殺された。そして義隆は既に竹原小早川氏を継いでいた元就の3男・小早川隆景を繁平の妹と結婚させた上で、天文20年(1551年)に沼田小早川氏の家督を継がせた。こうして両小早川家は再統一されたが、2人の間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。
その後、繁平は毛利元就の計らいにより、剃髪して禅に帰依し、教真寺に入って余生を過ごした。天正2年(1574年)、33歳で死去。
脚注編集
参考文献編集
- 今井尭ほか編 『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。