小柏丑二
経歴
編集石川県金沢市出身[2]。旧制第四高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学文科大学国文科を卒業[2]。広陵中学校教諭を務めた後、1919年(大正8年)に島根県立杵築中学校教諭となった[2]。1922年(大正11年)、福岡高等学校教授に就任[2]。1923年(大正12年)、群馬県立沼田中学校校長に転じ、1930年(昭和5年)からは岐阜県岐阜中学校校長を務めた[2]。
1934年(昭和9年)、東京市に入り、教育局視学課長、同学務課長を歴任した[2]。1939年(昭和14年)から本所区長に転じ[2]、東京市本所高等実践女学校の校長事務取扱などを務めた[3]。
栄典
編集- 位階
- 1921年(大正10年)6月21日 - 従七位[6]
- 1922年(大正11年)1月16日 - 正七位[7]
- 1926年(大正15年)3月15日 - 従六位[8]
- 1928年(昭和3年)10月6日 - 正六位[9]
- 1932年(昭和7年)5月16日 - 従五位[10]
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
編集- ^ 岐阜県職員録 昭和8年5月1日現在. 岐阜県. (1933). p. 69
- ^ a b c d e f g h 日本官界名鑑 1940, p. コ四.
- ^ “学校沿革”. 東京都立本所高等学校. 2017年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月16日閲覧。
- ^ 公職追放の該当事項は「武徳会支所長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、270頁。NDLJP:1276156。)
- ^ 『新宿区史』新宿区、1955年、p.1060。
- ^ 官報 1921年6月20日 六九七頁
- ^ 官報 1922年1月23日 三九三頁
- ^ 官報 1926年4月17日 四三一頁
- ^ 官報 1928年10月10日 二五八頁
- ^ 官報 1932年5月27日 七〇六頁
- ^ 官報 1941年10月31日 六頁
参考文献
編集- 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十五年版』日本官界情報社、1940年。