小槻 忠兼(おづき の ただかね、生年不詳 - 元永元年(1118年))は、平安時代後期の貴族主税頭小槻祐俊の長男。官位従五位下右大史

経歴 編集

白河朝末の応徳2年(1085年算道挙により主水権佑に任官する。寛治5年(1092年)正月の除目において、先任の忠兼と上日(勤務日)で勝る中原義経のいずれを左少史から右大史へ昇任させるかで問題となる。ここで、義経は忠兼に対して私礼がある事を理由に辞退したため、忠兼が右大史に昇任された。その後、時期は不明ながら巡爵により従五位下に叙せられている。

康和5年(1103年)父の小槻祐俊は大夫史を養子の盛仲に譲ったため、忠兼は嫡子でありながら大夫史の地位を継ぐことはできなかった[1]

元永元年(1118年卒去

官歴 編集

脚注 編集

  1. ^ 『中右記』康和5年2月29日条
  2. ^ 『魚魯愚鈔』第2 諸道内官挙 応徳2年12月16日 算道挙
  3. ^ 『江記』(柳原家記録所収)
  4. ^ a b 『系図纂要』

参考文献 編集