山田 有貞(やまだ ありさだ)は、江戸時代前期の薩摩藩士。

 
山田有貞
時代 江戸時代前期
生誕 天正19年(1591年
死没 万治4年4月3日1661年5月1日
別名 通称:弥七
戒名 無計勝庵主
官位 土佐
主君 島津義久義弘家久光久
薩摩藩
氏族 山田氏
父母 父:山田有信、母:関屋清右衛門
養父:山田有守
兄弟 有栄有貞有尊
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略歴

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天正19年(1591年)、山田有信の次男として誕生。叔父・有守の養子となり100石を領した。

慶長14年(1609年)に実父・有信が亡くなると、島津氏16代当主の島津義久が兄・有栄を召して、有信にはその軍忠に報い知行を与えようとしたが全て辞退されてきたので、せめて200石を子の有貞に与えたい旨を述べる。有栄がこれを容れたため、有貞は都合300石で奉公することとなった。

以後、有貞は町田久則と共に、小番として江戸詰めの馬廻役を務めた。寛永6年(1629年)、兄の有栄が出水[1]地頭に任じられると有貞も出水に移り、その地頭代として有栄の留守居役を務めた。

万治4年(1661年)、死去。享年71。

脚注

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  1. ^ 現・鹿児島県出水市

出典

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)