島津 都美(しまづ とみ、享保12年(1727年) - 延享2年11月7日1745年11月29日))は、加治木島津家当主島津久門の正室[1]。父は垂水島津家当主・島津貴儔。母は貴儔の正室・鎌鶴(先代垂水家当主・島津忠直島津綱貴三男)の次女)。妹に梅(島津久柄室)。実子に島津重豪がいる。院号は正覚院。都美の父・貴儔は薩摩藩5代藩主・島津吉貴の三男のため、都美は吉貴の孫にあたる。

生涯 編集

寛保3年(1743年)に薩摩藩主・島津継豊の息子で加治木島津家当主・島津久門の正室に迎えられた。延享2年(1745年)に長男・重豪を出産するもその日のうちに19歳で死去。都美は結局、夫や子が薩摩藩主となることは知る由もなかった。

生後間もなくして母を失った重豪は義理の祖母・浄岸院と父の継室となった村に養育された。重豪は母の三十三回忌の安永6年(1777年)に都美の墓の隣に供養塔を建立した。この供養塔は「亀墓」と呼ばれている。

脚注 編集

  1. ^ 久門は後の薩摩藩主島津重年のことであるが、藩主になる前に都美は死去しているので、「久門の正妻」ではあるが「重年の正室」ではない。ただ、「藩主島津重豪の生母」ではある。