工藤 治兵衛(くどう じへえ、? - 寛文4年11月28日[1]1665年1月14日[2])は、江戸時代前期の農民[1]義民[3]

経歴・人物編集

伊予国西条藩新居郡中奥山村の庄屋[1][3]。新居郡の内、中奥山村、黒瀬村、大保木山村、中奥山村、西之川山村、東之川山村などは米穀生産が少ない村落であったが、年貢は米納が義務付けられていた[3]。寛文4年(1664年)、米価の高騰により米納の為の買米が困難になった為、治兵衛は5カ村の総代となり米納から銀納にかえるよう藩庁に強訴した[1]。同年強訴の総代を務めた廉で11月28日、死罪となった[1]。治兵衛の死後、寛文10年(1670年)同地は松山藩の藩地となる[3]。5カ村は再び藩に請願を行い、同年年貢の銀納が許された[1][3]

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『工藤治兵衛』 - コトバンク
  2. ^ 和暦・西暦対照表〔1665年1月1日(寛文4年11月15日)~1666年12月31日(寛文6年12月6日)〕
  3. ^ a b c d e 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『工藤治兵衛』 - コトバンク