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市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月10日[1] / グレゴリオ暦 1869年1月22日[2] - 1943年3月2日[3])は、日本歌舞伎役者俳優である[1][4][5][6][7][8]。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)[1][3][4][6][7][8]。幼名及び旧芸名は市川 左伊次(いちかわ さいじ、市川 左い次とも[3][1][4][6][7][8]市川 榮升(いちかわ えいしょう)[1][3][4][6][7][8]。映画草創期に主演俳優として活躍した一人であり、5代目澤村四郎五郎との名コンビとして知られる[1][4][6]

いちかわ えんじゅうろう
市川 莚十郎
本名 生田 宮吉(いくた みやきち)
別名義 市川 左伊次(いちかわ さいじ)
市川 左い次
市川 榮升(いちかわ えいしょう)
生年月日 (1869-01-22) 1869年1月22日
没年月日 (1943-03-02) 1943年3月2日(74歳没)
出生地 日本の旗 日本 武蔵国(後の東京府浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区
身長 160.6cm
職業 歌舞伎役者俳優
ジャンル 歌舞伎旧劇劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1877年 - 1923年
配偶者
著名な家族 歌川芳春(実父)
主な作品
日蓮上人一代記
新朝顔日記
壺坂霊験記

来歴・人物編集

1869年1月22日旧暦 明治元年12月10日)、武蔵国(後の東京府東京市浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区)に生まれる、とされている[1][4][5][7][8]。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治三年十二月十日」(グレゴリオ暦 1871年1月30日)、生地は東京市浅草区馬道町1丁目(現在の台東区浅草1丁目)である旨が記されている[6]。また、1919年(大正8年)に発行された『役者の素顔』(玄文社)によると、生年月日・出生地は上記の通りだが、父は浮世絵師の一梅齋芳春(後の歌川芳春、1828年 - 1888年)であるという旨が記されている[5]

1877年(明治10年)、8歳で歌舞伎役者初代市川左團次(1842年 - 1904年)の門に入り、1878年(明治11年)、市川左伊次と名乗り9代目市川團十郎(1838年 - 1903年)の義賊である暁星五郎の狂言に小按摩役で初舞台、とされている[1][4][5][7]。『現代俳優名鑑』などによれば、1874年(明治7年)、満6歳の時に初代市川左團次の門に入り、新富座で初舞台を踏み、高島屋の門人において市川左伊次(市川左い次[3])と名乗ったという旨が記されている[6][3]。以後も師匠左團次と行を共にし、三州豊橋朝倉座本郷座市村座明治座などの舞台で大役を務める[1][4][7][6]。1904年(明治37年)、市川榮升と改め、師匠左團次の手を離れて独立、自ら一座を組織して横浜賑座で旗上げし、1910年(明治43年)頃まで地方巡業を継続した[1][4][7][3]。『役者の素顔』によれば、1902年(明治35年)12月に市川榮升と改めたとしている[5]。また上京してからは、演技座寿座、本郷座、東京座三崎座などの中小劇場に出演し、請われて横浜喜楽座に2年ほど座頭として奮闘する[1][4]。『現代俳優名鑑』によれば、横浜喜楽座、賑座の2座のみで5年間出勤したとある[6]。その後、1904年(明治37年)に初代左團次が死去し、2代目市川莚升が2代目市川左團次(1880年 - 1940年)を襲名して外遊中は明治座、新宿座に勤めて主家の留守を守り、左團次が帰国してから市川莚十郎と改名、とされている[1][4][7]。『現代俳優名鑑』などでは、左團次と共に本郷座の舞台に立ち、1912年(明治45年)に同座で市川莚十郎と改名したとある[6][3]。また『役者の素顔』によれば、1914年(大正3年)9月に本郷座で市川莚十郎と改名したという旨が記されている[5]。更に『日本映画俳優全集 男優篇』によれば、2代目市川左團次は莚十郎の実の息子としているが、実際は初代市川左團次であり、誤りである[4]

1915年(大正4年)11月、創立間も無い天然色活動写真(通称:天活)に入社したという[1][4][7]。『現代俳優名鑑』によれば、1917年(大正6年)頃、ある知人に誘われて天活に入社したとある[6]。その頃は既に尾上松之助(1875年 - 1926年)が日活に所属しており、得意のチャンバラで旧劇を撮影して全国的に人気があった為、天活も旧劇に主力をおき、同じ頃に入社した5代目澤村四郎五郎(1877年 - 1932年)とコンビの配役で、莚十郎としては十分に活躍の余地があった。しかし莚十郎は、活劇よりは世話物のうまい役者であり、写実的な芝居が上手だった為、尾上松之助辺りに比べると落ち着きすぎて、子供達の人気者にはならなかったという[4]。ところが、1917年(大正6年)10月31日に公開された莚十郎の代表作とも言える吉野二郎監督映画『日蓮上人一代記』の時だけは珍しく、活動写真館には中年以上の客がつめかけたという[1][4]。1920年(大正9年)、天活を買収して創立された国際活映巣鴨撮影所に移り、1921年(大正10年)には創立2年目である松竹蒲田撮影所へ一派と共に迎えられ、多くの作品に出演した、とされている[1][4][7]。『現代俳優名鑑』によれば、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所で活動中、1921年(大正10年)10月、国際活映巣鴨撮影所に招かれて入社したとある[6]。また、同書によれば、下谷区金杉上町88番地(現在の台東区入谷2丁目・竜泉1丁目辺り)に住み、身長は5尺3寸(約160.6センチメートル)、体重16貫700匁(約62.6キログラム)、妻子ありと記されている[6]

1921年(大正10年)秋、澤村が松竹蒲田へ入社したのと入れ違いに国活巣鴨に復帰した[1][4][7][8]。1923年(大正12年)2月1日に公開された枝正義郎監督映画『幽魂の焚く炎』が記録に残る最後の出演作品である[1][4][7][8]。以後の消息は不明[1][4][7][8]とされていたが、『演芸画報』1943年(昭和18年)6月号にて、3月2日午前0時に急性肺炎のため、数え年77歳[9]で死去したと報じられている[3]。告別式は同年3月4日午後2時に、下田区金杉上町の自宅で執行された[3]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、48頁。
  2. ^ 和暦での換算結果、maechan.net, 2019年4月21日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『演芸画報』昭和18年6月号、映画出版社、19頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、51頁。
  5. ^ a b c d e f 『役者の素顔』玄文社、1919年、17頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 『現代俳優名鑑』揚幕社、1923年、4頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年、72頁。
  8. ^ a b c d e f g h 『日本人物レファレンス事典 芸能篇I (映画・演劇・タレント)』日外アソシエーツ、2014年、66頁。
  9. ^ 『演芸画報』昭和18年6月号、演芸画報社、19頁。数え年77歳は誤植の可能性もあり、生年が正しければ数え年75歳である。

外部リンク編集