平古場 昭二(ひらこば しょうじ 1927年10月4日 - 2007年8月?)は、日本の野球選手、プロ野球審判員。戦後初の高校野球優勝投手となった人物でもある。

平古場 昭二
1954年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 1927年10月4日
没年月日 2007年8月
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物 編集

兄に国民野球連盟唐崎クラウンに選手として所属し、後に関西六大学野球の理事長を務めた平古場正晴がいる。

1946年阪急西宮球場で行われた戦後第一回目となる第28回全国中等学校優勝野球大会浪華商業学校の投手として活躍。準決勝の東京高等師範附属中(現・筑波大附属中・高)戦において、1試合19奪三振の大会最多タイ記録を達成する。決勝でも京都二中を完封、同校の戦後初優勝に貢献した[1]

卒業後は慶應義塾大学に進学。東京六大学野球リーグでは2回の優勝を経験。リーグ通算65試合登板し、29勝26敗、258奪三振。1948年秋季のリーグ戦では東大1回戦でノーヒットノーランを記録。最終年の1951年(昭和26年)には主将を務めた。

慶應義塾大学卒業後は社会人野球全鐘紡に進む。1952年第23回都市対抗野球大会では栄屋悦男との投の二本柱で決勝に進み、日鉄二瀬を降して鐘紡三連覇に貢献[2]。その後も主力投手として活躍した。

選手としてはプロ野球入りはしなかったが、後にパ・リーグ審判員となり、4年間務めた。

1969年、パリーグ審判員を退職して香川県小豆島に移住。2002年頃までゴルフ場総支配人などを歴任。

2007年8月11日、小豆島の自宅で死亡しているのが発見された。同月上旬に死亡したものと推定されるが、正確な死亡日は不明である[3]

 
浪華商業学校時代

エピソード 編集

戦後初の夏の甲子園で優勝投手となった当時、兵庫県淡路島に在住していた小学生、深田公之(ふかだ・ひろゆき、当時9歳)は平古場の快挙を新聞の活字で知り(当時は勿論テレビというメディアは存在せず)、「このヒラコジョーっちゅう選手、どないなピッチャーなんやろなあ」と思い、高校野球に興味を持ち始め、公之と甲子園大会を結びつけるきっかけとなった。この公之少年こそ、後に作詞家小説家として名を馳せる阿久悠である。

脚注 編集

  1. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 平古場昭二さん死去/戦後初の優勝投手 四国新聞 2007年8月11日閲覧

関連項目 編集