広谷致員
広谷 致員(ひろたに ちいん[1]、1896年(明治29年)12月7日[2] - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。嘉義市尹、花蓮港庁長、台北市長。
経歴
編集福島県双葉郡苅野村(現・浪江町)に生まれる[2]。1917年(大正6年)福島県立師範学校を経て、1922年(大正11年)東京高等師範学校を卒業し、鹿児島県立第一鹿児島中学校教諭となる[2]。
翌年12月[3]、高等試験に合格後教職を辞し、1924年(大正13年)台湾総督府税関属兼監視を経て、同府審議室勤務となる[2]。1926年(大正15年)地方理事官に進み旗山郡守に就任し、1927年(昭和2年)高雄州教育課長、1929年(昭和4年)同州地方課長、1930年(昭和5年)花蓮港庁庶務課長、1932年(昭和7年)嘉義市尹、1933年(昭和8年)中央研究所庶務課長、1934年(昭和9年)高雄州内務部長を経て、1936年(昭和11年)台湾総督府文教局学務課長に就任した[2][4]。ついで1939年(昭和14年)台北州内務部長、1941年(昭和16年)1月に花蓮港庁長を経て[1]、台北市長に就任した。
1944年(昭和19年)退官した[5]。
脚注
編集参考文献
編集- 台湾新民報社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1937年 。
- 太田肥州 編『新台湾を支配する人物と産業史』台湾評論社、1940年 。
- 興南新聞社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1943年 。
- 秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。