建部政和
建部 政和(たけべ まさより)は、江戸時代後期の大名。播磨国林田藩の第9代藩主。官位は従五位下・内匠頭。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保4年3月23日(1833年5月12日) |
死没 | 文久3年2月2日(1863年3月20日) |
墓所 | 京都市北区紫野の大徳寺芳春院 |
官位 | 従五位下・内匠頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 播磨林田藩主 |
氏族 | 建部氏 |
父母 | 父:建部政醇、母:不詳 |
兄弟 | 政和、坪内定益、土井利教、建部揆、建部秀隆正室、道子、朝倉某室、彦坂重遠室、はつ子 |
妻 |
正室:松平正義の娘 継室:朽木綱張の養女 |
子 | 政世 |
略歴
編集第8代藩主・建部政醇の長男として誕生した。幼少から聡明であるとされた。
嘉永2年(1849年)2月(または4月)8日、父の隠居により家督を継いだ。嘉永3年12月16日、従五位下・内匠頭に叙任された。嘉永5年(1852年)、藩校敬業館の教授として漢詩人で儒学者の河野鉄兜を招き、鉄兜より尊皇攘夷を説かれる。安政3年(1857年)2月20日、大番頭に就任する。文久3年(1863年)2月2日、大番頭として詰めていた二条城にて31歳で没した。跡を長男の政世が継いだ。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺芳春院。