弁正

飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。遣唐留学僧。

弁正(べんせい、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての

経歴

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『懐風藻』によれば、俗姓は秦氏、年の頃に出家し、玄学にすぐれていたという[1]大宝2年(702年)留学僧として第7次遣唐使に加わり入唐[1]では、囲碁を能くするとして、まだ皇子であった李隆基(のちの玄宗)によってたびたび賞遇された[1]。現地で還俗した後[1]、唐人の女性と婚姻したと想定され、息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている[1]。秦朝元は養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国に従って訪日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で没した[1]

懐風藻』に弁正の伝記と漢詩が2首残っている[1]。また、故宮博物館に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。

系譜

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  • 父:不詳
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 胡志昴「最盛期の遣唐使を支えた詩僧・釈弁正」『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』第9巻、埼玉学園大学、2019年12月、358-345頁。 

参考文献

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  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年