張万家奴

モンゴル帝国に仕えた将軍の一人

張 万家奴(ちょう まんぎゃぬ、? - 1283年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。

概要 編集

張万家奴の父ジャルグタイはトルイ(モンケ・カアン、クビライ・カアンらの父)に仕えた人物で、第二次金朝遠征に功績があり、河東南北路船橋隨路兵馬都総管万戸に任じられていた。その後も南宋との戦いに従事して嘉定の包囲にも加わったが、陣中で亡くなったという[1]

モンケ・カアンの時代、張万家奴は都元帥タイダルの配下に入って四川方面の経略に従事し、クビライが即位すると都元帥ネウリン(タイダルの息子)とともに入朝し父と同じ官を受けられた。南宋兵が成都に入ると、行院の阿脱とともにこれを撃退している。至元4年(1267年)、軍を率いて眉州・簡州を立て、イェスデルとともに瀘州を攻めて南宋軍を破り捕虜40人を得る功績を挙げた[2]

至元7年(1270年)、重慶攻めに加わり、朝陽寨などを攻略した。張万家奴は平康・太和・懐遠の諸寨に柵を築き兵を配して守るだけでなく、水陸両戦で戦功が多かったという。諸将が瀘州攻めに失敗した時には、自ら瀘州攻めを行うことを申し出て許された。張万家奴は150艘の船を率いて桃竹瀬から折魚灘に至り、神臂門に梯子を立てることで登城しこれを陥落させた。この功績により昭勇大将軍に任じられている。その後、重慶の包囲に加わって馬湖江の往来を断ち、兵を分けて遊撃隊として南宋軍に対抗した。またこの頃、成都および下流の諸屯に対する兵糧輸送を担い、招討使の地位に就いている。その後、都元帥薬剌海とともに亦奚不薛蛮を平定し、この功績により副都元帥の地位に進み、その息子張孝忠も船橋万戸に任じられた。この頃、雲南方面では悪昌・多興・羅羅といった諸族が叛乱を起こして朝廷の使者も殺害したため、張万家奴が命を受けて四川・湖南の兵を率いこれを討伐した。至元20年(1283年)、ビルマ達征に従軍したものの、遠征中に戦死してしまった[3]。遠征軍を指揮する雲南王は張万家奴の息子張保童に引き続き軍を率いるよう命じ、副都元帥の地位を継承させたものの、張保童もまた遠征先で戦死してしまった[4]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻165列伝52張万家奴伝,「張万家奴、父札古帯、事睿宗於潜邸。従破金有功、賜虎符、授河東南北路船橋隨路兵馬都総管万戸。従西征、下興元、囲嘉定、歿于軍」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52張万家奴伝,「万家奴数従都元帥大答火魯征討、有功。中統二年、従都元帥紐璘入朝、授以父官。宋兵入成都、従行院阿脱擊破之。至元四年、帥師会立眉・簡二州。従也速答児攻瀘州、大敗宋軍、殺傷過半、俘四十餘人以帰」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52張万家奴伝,「七年、率諸軍城張広平、与宋人戦、斬首三百餘級、獲都統一人。従攻重慶、破朝陽寨、囲嘉定、柵平康・太和・懐遠諸寨、分兵以守之、且日出師、水陸接戦、功居多。而諸将攻瀘州、往往失利、乃詣闕請自任以攻取之效、許之。遂率舟師百五十艘、自桃竹灘至折魚灘、分守江面、謹風火、厳号令、約日進攻。先拠神臂門、為梯衝登城、殺二百餘人、斬関而入、遂拔之、加昭勇大将軍。会囲重慶、将其衆断馬湖江、分兵水陸往来為游徼、加昭毅大将軍。以所部転餉成都及下流諸屯、尋遷招討使。与都元帥薬剌海討亦奚不薛蛮、平之、進副都元帥。詔其子孝忠為船橋万戸。以万家奴将四川・湖南兵征哈剌章。時雲南悪昌・多興・羅羅諸蛮皆叛、殺掠使者、劫奪人民、州郡莫能制。遂以其兵討之、勦其衆、民為之立祠。二十年、従征緬、戦死之」
  4. ^ 『元史』巻165列伝52張万家奴伝,「雲南王命其子保童、将其軍従征、入太公城、有功、襲副都元帥。又従征至甘州山丹、亦戦死」

参考文献 編集

  • 元史』巻165列伝52張万家奴伝
  • 新元史』巻166列伝63張万家奴伝