張 立(ちょう りつ、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。

概要 編集

張立は泰安州長清県の出で、当初は東平地方の大軍閥(漢人世侯)である厳実に仕えた。その後、江淮地方の平定に活躍し、百戸の地位を授けられている。1258年戊午)、モンケ・カアンが南宋領の四川地方に親征したのに従い、諸道の兵を集めて大獲山に至った。南宋側は山河を大険の要塞としてモンゴルの侵攻を防ごうとしたが、張立は精鋭兵を率いて南宋側の戦船100艘余りを奪う功績を挙げた。その後は釣魚山の包囲戦にも参加して功績を挙げたが、この包囲戦中にモンケ・カアンは病にかかり急死してしまった。モンケ・カアンの没後に起こった帝位継承戦争ではクビライの側につき、クビライと帝位を争うアリク・ブケを討伐するために北征し、帰還後は管軍総把の地位を授けられた。 更にその後、侍衛軍千戸から左衛親軍副都指揮使の地位に移っている[1]

至元14年(1277年)、張立は歩卒1千人を率いてカラコルムに食料輸送するよう命じられ、その道中でコンギラト族の冬営地でもある応昌城に通りかかった。しかしこの時まさにシリギの乱に呼応してジルワダイが応昌城を占拠し、張立の輸送する兵糧を射士3千で以て奪わんとした。異変を察知した張立は即座に兵糧を運ぶ車を中心に柵をめぐらせ、これに対してジルワダイの軍団は矢を斉射した。張立は上都を出立する際に車ごとに板2枚を載せており、これを用いることで矢を防いだ。業を煮やしたジルワダイ軍が接近戦を挑もうとすると、張立は弩弓を斉射することでこれを撃退した。ジルワダイ軍による包囲は数日続いたが、ジルワダイ軍は遂に張立軍の守りを崩すことができず撤退するに至った。この年、衛兵が増設されたが、以上の功績により張立は明威将軍・後衛親軍都指揮使に抜擢された。しかしそれから間もなく老齢を理由に職を退き、その後は息子の張珪、ついで孫の張伯が跡を継いだ[2]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻165列伝52張立伝,「張立、泰安長清人。初隸厳実麾下、略江淮有功、署為百戸。歳戊午、憲宗征蜀、徵諸道兵、立従行。次大獲山、宋人阻山為城、帶江為池、恃以自固、立統鋭卒、攻陷外堡、奪戦船百餘艘。復従攻釣魚山、有功、賜金帛。中統初、従世祖北征、還、授管軍総把、賜銀符、進侍衛軍鎮撫、換金符、改侍衛軍千戸。尋遷左衛親軍副都指揮使、賜金虎符」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52張立伝,「十四年春、率步卒千人転粟赴和林、道出応昌。会酋帥畔換謀不軌、以射士三千踵其後、欲乗間奪其資糧。立覚其有異、急命環車為柵以備之、賊衆已合、矢如雨下。初、立之発上都也、每車載二板、以備不虞。至是、建板于車、矢不能入、騎卒稍前、即以戈撞之、強弩継発、賊不得近、相持連日、乃解去。是歳、増置前後衛兵、進明威将軍・後衛親軍都指揮使、賜双珠虎符、加昭勇大将軍、以老乞退。子珪襲。珪卒、子伯潜襲」

参考文献 編集