張 籌(ちょう ちゅう、生没年不詳)は、初の官僚は惟中。本貫常州無錫県

生涯 編集

張翼の子として生まれた。末に江浙省試で首席の成績を挙げた。1371年洪武4年)[1]詹同の推薦により、翰林院応奉に任じられ、礼部主事に転じた。洪武帝の命を受けて礼部尚書の陶凱とともに以来の藩王の事跡を『帰鑑録』に編纂した。1373年(洪武6年)、広東参政となった[1]1376年(洪武9年)、礼部員外郎から礼部尚書に進み、学士の宋濂とともに諸王妃の喪服の制を定めた。張籌は歴代の礼楽儀制の沿革を暗記していたが、附会が多かった。社稷を合わせて一壇とし、句龍の祭祀を廃止し、神の配偶者の位を剥奪し、洪武帝の父の朱五四を合祀し、社稷と郊廟の祭祀を上祀に並列したので、識者に非難された。ほどなく湖広参政として出向した。1377年(洪武10年)、事件に連座して労役刑を科された。1379年(洪武12年)4月、礼部員外郎として起用された。9月、再び礼部尚書となった[2]。ほどなく事件のため免官された。

脚注 編集

  1. ^ a b 兪汝楫『礼部志稿』巻51
  2. ^ 談遷国榷』巻6

参考文献 編集

  • 明史』巻136 列伝第24