徳吉 英雄(とくよし ひでお、1921年10月25日 - 1958年9月21日)は、日本の画家。 1946年昭和21年)から1948年(昭和23年)にかけて倉吉民藝の同人誌『意匠』を発行。同時期に、鳥取中部の芸術団体「砂丘社」の機関誌『砂丘』復刊に尽力した。

人物・略歴 編集

1921年大正10年)生まれ。1934年(昭和9年)倉吉中学(現倉吉東高校)に入学し、中井金三に教わる。京都高等工藝学校(現京都工芸繊維大学)図案科に進学。卒業後は、鉄道本省に勤める。兵役を経て敗戦後は倉吉に戻る。

1946年(昭和21年)、私家版として同人誌『意匠』を発行する。『意匠』は郷土の工藝を育み向上させることを意図した雑誌であり、第1号から第4号まで発行された。寄稿者には、版画家・長谷川富三郎、染織家・吉田たすく[1]。上神焼山窯の山根藤一、大橋旅館の経営者で後の市議会議員・大橋二郎、河井寬次郞に師事した陶芸家・生田和孝、砂丘社同人の画家・波田野幸治、写真家・塩谷定好の長男・塩谷宗之助らの名前が見える。さらに、第4号には版画家・棟方志功が版画と文章を寄せている[2]

『意匠』の同人は雑誌の発行と並行して、民藝店「諸国工芸 風土」を開き、吉田たすくが主に経営にあたった[3]

1947年(昭和22年)には、「砂丘社」の機関誌『砂丘』復刊第1号が長谷川富三郎の編集として発行されている。印刷所は『意匠』と同じ構図荘である。『砂丘』復刊第2号は、徳吉英雄の編集による。1949年(昭和24年)から中学校の教員を務め、日本水彩画会展や日本板画院展に出品する。1956年(昭和31年)には日本海新聞連載小説「十萬寺党始末」の挿絵を担当するなど活躍したが、1958年(昭和33年)、泊海岸で事故死した[4]

脚注 編集

  1. ^ 当時、吉田たすくは染織研究を開始する直前で郷土玩具等を制作していた。
  2. ^ 渡邊太 2021, p. 76.
  3. ^ 今村実「吉田たすく 人と芸術」倉吉博物館編『郷土作家シリーズNo.11 吉田たすくの染織』倉吉博物館発行、1989年、4頁。
  4. ^ 倉吉博物館発行『ザ・倉吉博物館』倉吉博物館発行、2001年、美17頁。

参考文献 編集

  • 倉吉博物館発行『ザ・倉吉博物館』倉吉博物館発行、2001年、美17頁。
  • 渡邊太「同人誌『意匠』と倉吉の民藝運動」『鳥取看護大学・鳥取短期大学研究紀要』第82号、鳥取看護大学・鳥取短期大学、2021年1月、71-83頁、CRID 1390009224760496256doi:10.24793/00000322ISSN 21898332 

外部リンク 編集