愛岐日報(あいぎにっぽう)は、かつて愛知県および岐阜県において販売されていた日刊新聞。

概要

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この新聞は、1876年明治9年)8月に田原の医師鈴木春山の孫にあたる鈴木才三が編集長として『愛知日報』の題で発刊された[1]。当時、愛知県下では既に愛知新聞が日刊紙として発行されていたが、愛知新聞は政府寄りの新聞であって、自由主義的な新聞としては県下で初めてのものだった[1]。鈴木才三は福沢諭吉の門下生であって、この論調は諭吉仕込みのものであった[1]。同年11月には、早速『愛岐日報』と改題し、愛知県に加えて岐阜県にも進出を果たしている[1]。日刊となったのは翌年1月であった[1]

同紙の論客としては、内藤魯一村松愛蔵宮本千真木広瀬重雄小池雄などが紙面に登場し、自由民権運動の推進に一役買った[1]

1886年(明治19年)1月1日、愛知県令勝間田稔により県下三紙が合同し、扶桑新聞および絵入扶桑新聞となり、終焉を迎えた[2]

脚注

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参考文献

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  • 柴田史郎「愛岐日報」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、49頁。 
  • 中日新聞社社史編さん室 編『中日新聞創業百年史』中日新聞社、1987年8月28日。