敬恵公主(けいえこうしゅ、キョンへコンジュ、경혜공주、正統元年(1436年) - 成化10年12月30日1474年1月17日))は、李氏朝鮮の第5代国王文宗顕徳王后の娘。第6代国王端宗の姉。

敬恵公主
宗親一世
公主
出生年 正統元年(1436年
没死年 成化10年12月30日1474年1月17日
実父 文宗
実母 顕徳王后
配偶者 鄭悰
子女 鄭眉寿
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父が朝鮮王に即位する前は、平昌郡主(ピョンチャングンジュ、평창군주)に冊封されていた。夫の鄭悰との間に1男を儲けた。

生涯 編集

1636年、文宗と顕徳王后の次女として誕生。生母である顕徳王后は、自身が5歳の時に他界した。そのため、弟の端宗とともに、祖父の世宗の後宮である恵嬪楊氏に養育される。

1450年1月に鄭忠敬(チョン・チュンギョン、てい ちゅうけい)の息子である鄭悰(チョン・ジョン、てい そう)に降嫁。婚姻の際、彼女に土地が与えられた。同年4月に父が朝鮮王に即位したため、公主に冊封された。

1452年に父が崩御した後、弟の端宗が即位。しかし、1455年に叔父の首陽大君(後の第7代国王世祖)が癸酉靖難を起こした。その際、弟である端宗が退位された。事件に関連したとして、夫の鄭悰が流刑となる。

同年、彼女が病気を患うと夫の鄭悰は一時、解放されたが、彼女が回復すると再び、流刑されてしまう。

2年後には復位を謀ったとして、叔父の錦城大君と端宗も処刑。1461年には夫の鄭悰も処刑された。世祖によって、彼女は奴婢ヘ降格される危機があったが、貞熹王后の反対によって、事態は避けられた。

しかし、一部の記録ではとなり、質素な暮らしを過ごしたという記述もある。世祖は貧しい彼女を遺憾に思い、漢陽に彼女の屋敷と没収していた財産を与えた。

1474年12月30日、38歳の若さで死去した。息子の鄭眉寿(チョン・ミス、てい びじゅ)は、1506年に発生した中宗反正(国王燕山君を廃し、中宗が即位した宮廷クーデター)で三等功臣の称号を得ている。

家族 編集

王家
夫側

登場作品 編集

外部リンク 編集