料理と食養生の書』(りょうりとしょくようじょうのしょ、Kitab al-Tabikh wa Islah al-Aghdhiyah al Ma'kulat, アラビア語: (كتاب الطبيخ وإصلاح الاغذية المأكولات وطيبة الأطعمة المصنوعات مما استخرج من كتب الطب وألفاظ الطهاة وأهل اللب)は、イブン・サッヤール・アル=ワッラーク英語版が編纂した10世紀料理書。現存する最古のアラビア語の料理書であり、中世イスラーム世界の食文化を伝える文献となっている。『料理書』とも略称される[1][2]

時代背景・著者 編集

中世のアラブ料理書は、アダブ(adab)と呼ばれるアラビア語文学のカテゴリーに属する。本書が作られたアッバース朝時代のアダブとは基礎教養を指し、料理書も食べ物や料理についての教養を伝えることを目的にしていた。主な読者層は富裕層の子弟や知識人であり、その中でも実際に調理を行いうる人が想定されていた[注釈 1][4][5]

8世紀から11世紀にかけて、イスラーム世界の経済・文化の中心の1つだったバグダードでは料理書が盛んに作られた。本書には出典に使われた書物についても記述があり、それ以前の時代から多数の類書が存在していたことが分かる[6]。アッバース朝の宮廷では食事療法が行われ、9世紀以降は医学者が食養生学について盛んに執筆した[7]

当時の料理書の著書や編者は、宮廷に仕える学者、音楽家、官僚、カリフの侍医だった[6]。本書の編者であるワッラークについては、生没年を含め詳細が不明となっている[2]

内容 編集

132章で構成され、百科全書的な内容をもつ[2]。食材の医学的特性と効能の一覧。パン・穀物・肉・魚・卵・野菜料理の調理法。病人食の調理法。菓子類と飲料の製法。食事の作法、酒類の製法。食に関する逸話や詩もある[8]。ワッラークが参考にした他の書物として、食養生書、料理書、飲料の書、葡萄酒の書、シロップの書などが書かれている[2]。9世紀から11世紀までのアラブ料理書は宮廷料理について書かれており、本書の内容も宮廷料理に属する[1]

序文 編集

中世アラブ料理書は医食同源の思想にもとづいている[注釈 2][10]。多くの料理書の序文では、(1) 食に関する情報の氾濫、(2) 奇異な料理がもてはやされる風潮、(3) 風土や人々の体質に合わない料理がもてはやされる問題などを指摘し、正しい料理(al-sahih min al-tabikh)の必要性が強調される[11]。ワッラークも本書の序文で次のように書いている[12]

(料理書を依頼した)あなたが、食の語り手たちによる多くの話に困惑しながら、結局は食の本質についてはわずかなことで満足せざるを得ないでいるのを、私は知った。そこで私は価値ある情報を取り集め、それを引用し、また調理の正しさを追求し、定義した[12]

調理法 編集

調理法は552種類が掲載され、料理名ごとに章立てされている[13]。料理一つごとに調理法を載せる構成になっている。たとえばパンを酢と油に浸すサリード(Tharid)という穀物料理は、当時の都市で最もよく食べられており、調理法は次のように書かれている[14]

ワインビネガーを壺に入れ、そこに酢の半分の量の砕いた砂糖と少々の塩を入れる。別の壺には丸く平たいパン(raghif)をちぎり入れ、水を加えてしばらく置く。パンを取り出し、水気をよく切る。刻んだキュウリやタマネギ、ミントの葉、タラゴン、セロリ、タイム、バジルをパンに振りかけて、よく混ぜる。そのパンに砂糖を溶かした酢をたっぷりとかける。次に1ウーキーヤ英語版のオリーブ油を注ぐ。そしてディルハム硬貨のように切ったキュウリを表面に並べ、氷をふりかける。酢を混ぜたバラ水を手で振りかける。これで最も美味なサリードとなる[14]

パスタにあたる料理の製法もあり、本書にはイトリヤ(itriya)と呼ばれるものがある。中世イスラーム世界のイトリヤは、イーストを入れないファティール(fatir)というパンの生地から作り、水で加熱調理した[注釈 3][16]。米や豆の代用品としてスープに入れたり、砕いてプディング菓子に入れている[17]

肉料理ではラム肉や鶏肉のロースト、ソーセージ、チキンポットパイのような料理(tannuriyya)がある。魚料理の種類は肉より少なく、大型の魚を使った詰め物などがある[注釈 4]。デザートとしては焼き菓子(halaqim)やプディングの一種(khabis)がある[18]。病人食としては、穀物スープにあたる「イブン・マーサワイヒの書からの大麦水」という料理の製法などがある[注釈 5][19]

香辛料 編集

本書の調理法の特徴として、当時は薬としても重宝された香辛料が多く使われている点がある。麝香龍涎香没薬丁子ナツメグカルダモンなどである[20]

調理用具 編集

調理用具についての記述もある。たとえば料理用の鍋については、9世紀の哲学者キンディーの『道具の書』からの引用もあり、石、銅、鉄、錫、真鍮、素焼きの素材別に形状・特性・適した料理を述べている[21]。肉の煮込みに最適なのは石の深鍋、小麦粥に最適なのは錫メッキをした銅の深鍋であるなどの説明も付けられている[22]

加熱用具には、下方から火をあてるコンロ式と、四方密閉で蒸しあげるオーブン式が説明されている。主なコンロにあたるものはムスタウカド(mustawqad)と呼ばれ、料理用と菓子用に分かれている[23]タンノール英語版という土製のオーブンは、パンや小麦粉を使った料理の多くをはじめ、いくつかの肉料理、魚料理、野菜料理、デザートなどあらゆる食材に使われている。ナバテアの水パンというパンの製法は、21世紀のトルコのディヤルバクル県でタンノールを使うパンの製法と同じ手順であり、同様の構造だったことが分かる[24]。詳細が不明なカーヌーン(kānūn)やフルン(furn)などのコンロやオーブンもある[21]

評価・影響 編集

アラブ料理書における位置 編集

本書は一つ一つの料理の名称ごとに構成されており、類似の構成の料理書として、『ムワッヒド朝期のマグリブ・アンダルスの料理書英語版』(13世紀、著者不詳)や、Ibnal-Mirbadの 『料理術の書』(13世紀)がある[注釈 6][25]

影響 編集

本書は後世のアラブ料理書に多大な影響を与えたとされている[20]。増補にあたる内容の書物として、アイユーブ朝で作られた『医学の無知から免れるための友人との絆の書』(13世紀。以後『絆の書』と略記)がある[26]。アラブ料理書は過去の書物の題名を変えて利用されることがあり、長くは200年以上前の書物も使われる。『絆の書』も、本書をもとに編纂された可能性がある[20]

本書の他に影響が大きかった中世の料理書として、バグダードのムハンマド・ビン・ハサン・アル=バグダーディー英語版による『料理書』(1226年)や、アイユーブ朝の地域で書かれたとされる『おいしい料理と香料の説明に関する友人との絆』(著者不詳、13世紀)がある[27]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 同じように料理を記した書物でも、ラスール朝の記録である『知識の光』(13世紀)には具体的な調理法が書かれておらず、行政文書をもとにまとめたと推測される[3]
  2. ^ 中世アラブ医学英語版古代ギリシャ医学英語版の知識をもとにしている。ヒポクラテスガレノスの理論を受け継いでおり、四元素四体液説、四性質の理論にもとづいていた[9]
  3. ^ 13世紀以降の料理書には、クスクスやタルティーンなどが登場する[15]
  4. ^ 魚の腹をくり抜き、魚の身、卵、塩、スパイス、ヘンルーダとコリアンダーのみじん切りを混ぜて詰めてから低温で加熱する[18]
  5. ^ イブン・マーサワイヒ英語版は4人のカリフの侍医をつとめた医師で、ネストリウス派だった[19]
  6. ^ その他の構成としては、料理の範疇ごとに構成した書物、食材別に構成した書物がある[25]

出典 編集

  1. ^ a b 鈴木 1994, p. 92.
  2. ^ a b c d 尾崎 2012, p. 25.
  3. ^ 馬場 2014, pp. 22, 24–25.
  4. ^ 鈴木 1994, p. 90.
  5. ^ 馬場 2014, p. 24.
  6. ^ a b 鈴木 1994, p. 94.
  7. ^ 尾崎 2016, p. 176.
  8. ^ 鈴木 1996, p. 29.
  9. ^ 岡﨑 2012, pp. 589–590.
  10. ^ 鈴木 1996, p. 89.
  11. ^ 鈴木 1994, p. 95.
  12. ^ a b 鈴木 1996, p. 37.
  13. ^ 鈴木 1996, pp. 29, 35.
  14. ^ a b 鈴木 1996, pp. 32–33.
  15. ^ 鈴木 1999, p. 27.
  16. ^ 鈴木 1999, pp. 25–26.
  17. ^ 鈴木 1999, p. 28.
  18. ^ a b 赤司 2021, p. 144.
  19. ^ a b 鈴木 2016, p. 178.
  20. ^ a b c 鈴木 1996, p. 35.
  21. ^ a b 尾崎 2012, p. 26.
  22. ^ 尾崎 2012, pp. 26–27.
  23. ^ 尾崎 2012, pp. 25–26.
  24. ^ 赤司 2021, pp. 143–144.
  25. ^ a b 鈴木 1996, p. 32.
  26. ^ 鈴木 1994, p. 99.
  27. ^ 馬場 2014, pp. 68–70.

参考文献 編集

  • 赤司千恵「いわゆる「タンノール」と何か」『文化財研究所 研究報告』第20巻、帝京大学文化財研究所、2021年、137-146頁、ISSN 243382062022年10月8日閲覧 
  • イブン・ブトゥラーン, 岡﨑桂二「イブン・ブトゥラーン『医師たちの宴会』 : 解題・翻訳・注釈」『四天王寺大学紀要』第54巻、四天王寺大学、2012年、587-614頁、2022年10月8日閲覧 
  • 尾崎貴久子「中世イスラーム世界の鍋」『イスラーム地域研究ジャーナル』第4巻、早稲田大学イスラーム地域研究機構、2012年3月、25-33頁、ISSN 1883597X2022年10月8日閲覧 
  • 尾崎貴久子「中世イスラーム世界の大麦と大麦食品」『オリエント』第58巻、日本オリエント学会、2016年3月、170-183頁、2022年10月8日閲覧 
  • 鈴木貴久子「中世アラブ料理書の系統と特徴について」『オリエント』第37巻第2号、日本オリエント学会、1994年、88-107頁、2022年10月8日閲覧 
  • 鈴木貴久子「マムルーク朝時代の料理書『日常食物誌』を中心とするアラブ・イスラーム世界の食生活研究」、東京外国語大学 大学院総合国際学研究科、1996年3月、2022年10月8日閲覧 
  • 鈴木貴久子「中世イスラーム世界のパスタ」『オリエント』第42巻第2号、日本オリエント学会、1999年、22-39頁、2022年10月8日閲覧 
  • 馬場多聞「初期ラスール朝史研究 : 宮廷食材をめぐる一考察」、九州大学、2014年、2022年10月8日閲覧 

関連項目 編集