郁久閭 斛律漢音:いくきゅうりょ こくりつ、拼音:Yùjiŭlǘ Húlǜ、? - 416年頃)は、柔然可汗縕紇提の子で社崙の弟。可汗号は藹苦蓋可汗[1](あいくかいかがん)といい、“姿質美好(外見と内面は美しく好ましい)可汗”という意味である。

生涯

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永興2年(410年)、社崙が死去すると、その子の度抜はまだ幼かったので、部衆は社崙の弟の斛律を立てて藹苦蓋可汗とした。斛律は北の賀朮也骨国を併合し、東の辟歴辰の部落を破った。

永興3年(411年)、斛律は北燕馮跋に馬三千匹を献じ、馮跋の娘の楽浪公主を娶る。12月、斛律の宗族の悦侯・咄触干ら百数十人が北魏に投降した。斛律は北魏の威を畏れて防備を固め、南に侵攻しようとはしなかった。このため北魏の北辺は安静となった。

神瑞元年(414年)、柔然は北燕の馮跋と友好関係を結んだ。今度は馮跋が斛律の娘を娶って妻とし、婚姻を交わそうとした。これに斛律の長兄の子の歩鹿真が反対したが、斛律は許さなかった。このため歩鹿真は大臣の樹黎・勿地延らと共謀して、夜に勇士を斛律の穹廬に忍ばせて斛律を捕え、その娘とともに北燕の都の和龍に送りつけてやった。馮跋は斛律を封じて上谷侯とした。樹黎は歩鹿真を新たな可汗として即位させた。

泰常元年(416年)、斛律は馮跋に塞北に帰りたいと請願し、馮跋は単于前輔の万陵を派遣して300騎で斛律を勅勒の地まで送ってやることにした。しかし、万陵は遠方ゆえに億劫になり、途中の黒山に至ったところで斛律を殺して帰還した。

脚注

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  1. ^ 白鳥庫吉は『東胡民族考第十』において、蒙古語のdjang(風習、性質、資質)の原形古音をyak/yagとみなし、藹苦がこれの音訳とし、蓋はgowa(美好)の音訳であるとした。藤田豊八は『蠕蠕の国号及び可汗号につきて』において、藹苦蓋をukkaga/ukhaga(知恵、聡明)に比定した。

参考資料

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先代
社崙
柔然可汗
410年 - 414年
次代
歩鹿真