阿仏坊日得(あぶつぼうにっとく、阿仏房とも)は鎌倉時代における、日蓮宗の信徒。

順徳天皇に仕え、従四位上に叙せられる。和漢の学に通じ、歌道にも上達していた。承久3年(1221年)に承久の乱により佐渡島に流された天皇に従って、仁治3年(1242年)に崩御するまで側近く仕える。その直後に妻(千日尼)とともに剃髪し、30年間も天皇の陵に廬を結んで住む。もともと浄土宗を深く信仰し、念仏怠りなく、自ら「阿仏坊」と号していたが、文永8年(1271年)の冬に日蓮が佐渡に流され、塚原に潜んでいたところを訪問し、日蓮の説を聴き、妻とともに浄土宗を棄てて弟子となる。文久11年(1274年)に日蓮が鎌倉を経て甲斐に隠栖すると、遠くにありながら再三身延山を訪れては日蓮の説法を聴いていた。弘安元年(1278年)に90歳の身で登山したのに対し、日蓮は大いに感激して、「日得」の名を与えた。その翌年に寂す。

阿仏房に関しては、承久の乱の時に佐渡に流された順徳上皇のお供の武士で、藤原氏であったという説や、佐渡にの人であったという説もあり、定かではない。ただ入信以前は、熱心な念仏の信者であった。弘安2年3月21日、91歳で亡くなるまでの間、阿仏房は老齢にもかかわらず、遙かに海山を越えて、身延の大聖人様のもとへ三回も登山参詣をした。大聖人様から、「北国の導師」と称えられた。阿仏房の曽孫に当たる如寂房日満も、幼少より富士の日興上人様のもとに参じて行学に励み、北陸七ヵ国の門下の別当に任じられている。

参考文献編集

  • 上田本昌阿仏房について」『印度學佛教學研究』第26巻第1号、日本印度学仏教学会、1977年、 43-48頁、 doi:10.4259/ibk.26.43ISSN 0019-4344NAID 1300040239612020年8月18日閲覧。

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