時山直八
時山 直八(ときやま なおはち)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。諱を養直[1]
時山 直八 | |
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
生誕 | 天保9年1月1日(1838年1月26日) |
死没 | 慶応4年5月13日(1868年7月2日)[1] |
別名 | 通称:松太郎、直八、変名:萩野鹿助、玉江三平[1]、雅号:白水山人、海月坊、梅南、漂流坊、玉江浪人 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:時山茂作 |
生涯
編集天保(1838年)元旦、萩城外の奥玉江にて士雇・時山茂作の子として生まれた。
同藩の槍術師範・岡部半蔵に宝蔵院流を習う。また、嘉永3年(1850年)頃、吉田松陰の松下村塾にて学んだほか、安井息軒にも師事している[1]。
高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加するが、攘夷の不可能を悟ると討幕運動に邁進した。京都の藩邸で諸藩応接掛を務め[1]、八月十八日の政変や禁門の変、長州征伐などの数々の戦争において、奇兵隊参謀として活躍した。
慶応4年(1868年)、北越戦争における越後長岡藩との朝日山攻防戦において、陣頭に立って指揮し立見尚文率いる桑名藩兵と戦ったが、顔面を狙撃されて即死した。享年31。なお、戦場の最前線であったため、奇兵隊士は時山の首を掻き斬って持ち帰るのが精一杯で、遺体は放置されたという。
備考
編集脚注
編集関連作品
編集- 小説
- テレビドラマ