月形 深蔵(つきがた しんぞう、寛政10年3月3日1798年4月18日) - 文久2年4月5日1862年5月3日[1])は江戸時代後期の福岡藩士、儒学者。諱は弘。字は伯重。漪嵐(きらん)と号した。月形鷦窠の子で、月形洗蔵の父。

福岡藩士で100石を食んだ。17歳で江戸(現在の東京)に出て、古賀精里に学んだ。文政2年(1819年)帰国して馬廻り役となり、藩校修猷館の指南加勢小役となった。嘉永3年(1850年)致仕し、子の月形洗蔵(詳)が跡目を嗣いだ。深蔵は辺防の策一篇を著して、当今の急勢を論じた。文久元年(1861年)、深蔵は屏居を命ぜられ、洗蔵は秩禄(給与)を奪われて謫居させられた。深蔵はこれがため憂鬱ついに病気となり、文久2年(1862年)4月5日歿した。享年65。明治24年(1891年)11月5日靖国神社合祀。明治35年(1902年)11月正五位を贈られた。

脚注

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  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献

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  • 筑紫豊 編「福岡県に於ける明治維新の人柱」 福岡県護国神社、1968年10月8日(非売品)21ページ