有泉 信閑(ありいずみ のぶつら)は、戦国時代から安土桃山時代武将甲斐国の人。穴山氏、のち徳川家康に仕える。

 
有泉信閑
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文18年(1549年
死没 慶長3年(1598年
別名 大学助
主君 穴山信君勝千代徳川家康
氏族 清和源氏義光逸見氏族有泉氏
昌資
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生涯 編集

有泉氏は甲斐国巨摩郡有泉を苗字の地とする土豪で、武川衆に属す。穴山氏に従い、穂坂常陸介とともに重臣であった。天正10年(1582年天正壬午の乱において後北条氏が甲斐国に侵攻すると、武田旧臣の大村氏がこれに内通して笛吹川に布陣した。穴山勢がこれに抗戦したが、信閑はこれに加わって雁坂峠の戦いで軍功を挙げた。これが徳川家康に認められ、本多広孝大久保忠世とともに信濃国の調略を命じられる。以後も岡部正綱平岩親吉らの麾下として甲斐国の経営に従事した。天正18年(1590年)家康が関東移封となると信閑もこれに従うが、戦傷により奉公を辞して許され、上総国周淮郡に150石の隠居料を与えられた。慶長3年(1598年)に隠居地で没し、家督は子の昌資が継ぐ。一時徳川忠長に連座して失領するが、のち長柄郡に150石で復帰し、代々旗本として江戸幕府に仕えた。

出典 編集