木村秀興

大正から昭和前期の実業家・政治家

木村 秀興(きむら ひでおき、1872年11月3日(明治5年10月3日[1])- 1941年昭和16年)4月5日[2][3])は、大正から昭和前期の実業家政治家衆議院議員

木村秀興
きむら ひでおき
生年月日 1872年11月3日
出生地 日本の旗 日本 三重県員弁郡北大社村
(現三重県員弁郡東員町)
没年月日 (1941-04-05) 1941年4月5日(68歳没)
出身校 東京帝国大学文科大学史学科卒業
(現東京大学文学部)
所属政党 立憲民政党
子女 四男・木村俊夫
親族 父・木村誓太郎(貴族院議員)

選挙区 三重県第1選挙区
当選回数 2回
在任期間 1928年2月 - 1932年1月21日

稲部村会議員
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経歴

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三重県[2]員弁郡北大社村(稲部村[4][5]大字北大社[1]、東員村を経て現東員町大字北大社)で、豪農木村誓太郎の長男として生まれる[4][6]。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学史学科を卒業[1][2][3][4][5]。1919年(大正8年)家督を相続し[6]、農業を営む[2][6]

員弁郡信用購買組合連合会長、三重県信用組合会会長、同県畜産組合連合会副会長、産業組合中央会三重支部理事、員弁郡農会会長などを務め[2][3][4]、農事改良、農業振興に尽力した[4]。実業界では、東海電線取締役、三重県農工銀行監査役、北勢電気鉄道(三岐鉄道北勢線)監査役などを務めた[1][2][3][4][5][6]

政界では、稲部村会議員、員弁郡教育会長などに在任[2][3][5]。しばらく衆議院議員立候補の勧誘を固辞していたが[1]、1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙で三重県第1区から立憲民政党所属で出馬して初当選[4][6][7]。1930年(昭和5年)2月の第17回総選挙(三重県第1区、立憲民政党公認)でも再選され[8]、衆議院議員に2期在任した[2][3][5]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e 『三重県紳士録 前編』73頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』208頁。
  3. ^ a b c d e f 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』122-123頁。
  4. ^ a b c d e f g 『東京横浜三重県人評伝』659-660頁。
  5. ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』150-151頁。
  6. ^ a b c d e f 『人事興信録 第8版』キ26頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』171頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』183頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 服部英雄編『三重県紳士録 前編』三重県紳士録編纂会、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
  • 蒲生隆宏編著『東京横浜三重県人評伝』三重県人雑誌社、1930年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』廣新二、1985年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。