朱仁聡
平安時代中期の北宋の商人
概要 編集
永延元年(987年)以降たびたび来日した。長徳元年(995年)9月に林庭幹ら70人余りとともに若狭国に来航し、のちに越前国へ移った [1]。この頃に藤原為時は越前守に任じられているが、これは一条天皇が学問のあるものに唐人と詩を作り交わらせてみたかったからと言う説も存在する。
長徳3年(997年)10月28日には若狭守源兼澄に対して凌轢(乱暴な行い)をしたため[2]、11月11日には明法家にその罪名が調べられている[3]。また、長保2年(1000年)には、越前国にいた時に献じた雑物の代金が未払いになっていると訴えを起こし、それに対して8月24日に皇后藤原定子から指示がなされた[3]。
参考文献 編集
- 『浄土仏教の思想第 6 巻』(講談社、1992年、221p)
- 『人物叢書 - 第 197 巻』(吉川弘文館、1958年、176p)