朴基丙
朴 基丙(パク・キピョン、박기병)は大韓民国の軍人。創氏改名時の日本名は豊島(名は不明)[1]。
朴基丙 박기병 | |
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生誕 |
1917年6月12日 日本統治下朝鮮 京畿道京城府 |
死没 |
1993年6月17日(76歳没) 大韓民国 ソウル特別市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
准尉(日本陸軍) 少将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院将軍第1墓域246号 |
人物
編集1917年、京城に生まれる。日本軍に特別志願して関東軍に勤務。独立運動家に内通した疑いで金昌龍の尋問を受ける[2]。終戦後、新京保安司令部(長:丁一権)生徒隊教官[3]。
1946年1月15日付で軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10021番)[4][5]。
1948年、第4連隊副連隊長。1949年2月1日、第21連隊長[6]。同年3月31日、第20連隊長[7]。
1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると第20連隊はソウルの防御に投入される。1950年7月、第1師団と合流して第12連隊長。1950年9月3日、第6訓練所長[8]。1950年9月、第20連隊長。1950年秋、歩兵学校教授部長兼参謀。1951年3月、陸軍予備士官学校副校長[4]。1952年5月、太白山地区戦闘司令官[4]。1953年1月、任准将[4]。同年4月21日、第22師団長。
1955年、第15師団長、任少将。1957年、第2師団長。1958年、軍事研究発展局長。1959年、教育総本部副総長。1960年、第5管区司令官。
出典
編集- ^ “(3667)金昌龍の入隊―第79話陸士卒業生(120)” (朝鮮語). 中央日報. (1983年3月22日) 2019年3月25日閲覧。
- ^ “(3666) 제79화 육사졸업생들(119)-김창룡소위” (朝鮮語). 中央日報. (1983年3月21日) 2017年10月8日閲覧。
- ^ “중국인들 무자비한 한인보복살인 교민 자유 위해 보안사 설치-김홍일장군 권고따라 천신만고 끝에 귀국” (朝鮮語). 中央日報. (1982年11月29日). オリジナルの2021年5月4日時点におけるアーカイブ。 2017年10月8日閲覧。
- ^ a b c d e 国防部戦史編纂委員会 1970, p. 174.
- ^ 佐々木 1976, p. 86.
- ^ 佐々木 1976, p. 89.
- ^ 佐々木 1976, p. 209.
- ^ 国防部戦史編纂委員会 1970, p. 309.
参考文献
編集- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- “韓國戰爭史第3巻 洛東江防禦作戰期(1950.8.1~9.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. 2020年2月20日閲覧。