李安 (成漢)
生涯
編集永寧元年(301年)、李特が挙兵するとこれに従った。征伐に赴くとその勇烈さで名を馳せ、李特は彼を養子に迎えた。驍騎将軍李驤は彼を引き入れて帳下督護に任じ、幾度も戦功を挙げたので大いに信任された。
永寧2年(302年)、西晋の益州刺史羅尚が苻成や隗伯を派遣して郫城を攻撃させると、李驤は迎撃したが不利となり、負傷して落馬し立てなくなった。士卒らは散亡し、ただ李安と任回だけが側にいた。隗伯は数千騎を率いて到来すると李安を叱り「武龍よ、我が取るのは一人である。卿は我を避けるがよい」と言った。李安はこれを聞くと目を瞑り「我はそのような話には付き合わん!」と叫び、馬を躍らせて直進して彼に傷を負わせた。隗伯は逡巡したが、最終的に軍を退かせた。
参考文献
編集- 『十六国春秋』巻80