李隠之

中国系高句麗人の唐の官僚

李 隠之(イ・ウンジ、朝鮮語: 이은지655年 - 705年)は、中国系高句麗人官僚[1]。息子の李懐墓誌に「公の十二葉の祖の敏は河内太守と為る…因って遼東の人と為る」とあり、先祖が高句麗に移民し、高句麗化していた漢人[1]

イ・ウンジ

李 隠之
生誕 655年
死没 705年
職業 官僚
配偶者 劉氏(河間県君)
子供 李懐
李直
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李 隠之
各種表記
ハングル 이은지
漢字 李 隠之
発音: イ・ウンジ
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人物 編集

長安ないし洛陽で生まれる[1]。李隠之の祖父の李敬は、唐太宗唐の第一次高句麗出兵後の645年に長安に渡る。李隠之の祖父の李敬は長安に居を定めてすぐに逝去したことから、李隠之の父である李直は栄誉を享受しておらず、李隠之も官位は高くないが、息子の李懐は、玄宗韋氏の乱平定に勲功を立て、活躍する。李隠之が結婚した河間県君の劉氏は漢人である[1]

出自 編集

李隠之の墓誌が出土しており、墓誌は洛陽九朝刻石文字博物館に所蔵されている。墓誌石の長さは 48.5センチ、幅は53センチ、22行、楷書、墓誌蓋は篆書で「大唐故李府君墓誌銘」、鴛鴦紋唐草紋がある。また、李隠之の息子の李懐の墓誌が1928年に洛陽の北16キロの南陳庄村で出土しており、千唐誌斎博物館が所蔵している[1]

其先遼東人也,晋尚書令胤即其枝類。祖敬,父直,或孝徳動天,馳名於楽浪,或忠勤済物,誉表於扶余。公厭海壖之風,慕洛汭之化,重訳納貢,随牒受官,勇武既自於天然,果断寧由於学得。 — 李隠之墓誌
昔晋氏乘乾,遼川塵起,帝欲親伐,実要□□。公十二葉祖敏為河内太守,預其選也。克滅之後,遂留拓鎮,俗頼其利,、因為遼東人。至孫胤,挙孝廉,仕至河南尹,加特進,遷尚書令,晋之崇也。曾祖敬,隋襄平郡従事。太宗東幸海関,、訪晋尚書令李公之後,僉曰:末孫孜在。帝許大用,尽室公行,爰至長安,未貴而没。悲夫!其子曰直,直生隠之,贈清源郡司馬,公則清源府君之冢子也。 — 李懐墓誌

楼正豪は、この墓誌史料、『三国志』『晋書』『北史』『新唐書』などに基づき、李隠之と李懐の先祖の考証をおこない、「李敏 - 李信 - 李胤 - □□ - □□ - □□ - □□ - □□ - □□ - 李敬 - 李直 - 李隠之 - 李懐 - 李智通」という李氏の系譜を明らかにしている[1]

李隠之は「殯を河南府河南県平楽郷の原にうつし」、開元廿七年五月に妻の劉氏と合葬となり、新たな墓は「公の旧塋の西南一里半」にある。李懐は、天宝四載四月二十二日に妻の王氏と「洛陽県平楽郷の原、周礼に従う」に合葬されている。すなわち、李隠之・李懐父子の墓は区域内にあり、唐人の家族父子は共同墓地をもつという慣例に準じており、高句麗化した漢人後裔である李隠之・李懐父子は、純粋な高句麗人とは生活規範に相当違いがみられる[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g 拜(2017).

参考文献 編集

  • 拜根兴从新见入唐高丽移民墓志看唐代东亚人员流动」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第3巻、専修大学社会知性開発研究センター、2017年3月、51-62頁、doi:10.34360/00008254NAID 120006785664