李青松 (軍人)
李 青松(1912年[1] - 1951年3月17日[注釈 1])は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人。ソ連派に所属。高麗人。
李青松 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 리청송 |
漢字: | 李靑松 |
発音: | リ・チョンソン |
ローマ字: | Li Cheong-song |
経歴
編集1912年、沿海州に生まれる[3]。ソ連軍の通信学校を卒業[3]。ソ連共産党に入党[3]。1942年、第88独立旅団に配属される[3][4]。1945年8月、第88独立旅団書記[3]。階級は特務上士(曹長)[1]。
1945年9月、第88旅団隊員と共にソ連軍艦のプガチョフ号に乗船して9月19日に元山港に入港[5]。ただし呂政が金京石から聞き取ったところによれば、金光侠、柳昌権、李青松、池炳学らの部隊は満州へ進出した[6]。金光侠が牡丹江軍区の政治委員に就任し、牡丹江市で組織されていた高麗警察隊が牡丹江軍区第14団第3営に改編されると、柳昌権が営長、李青松が教導員を務めた[7]。1946年、中央保安幹部学校経理部長[3]。1946年8月、保安幹部訓練大隊部通信部副部長[8]。1948年2月、朝鮮人民軍第2師団長[9]。同年8月25日、第1期最高人民会議代議員[10]。
1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発。第2師団は春川に侵攻するが、第6師団第7連隊の抵抗に遭い計画通りに占領できなかったため南海旅団長に左遷される[11][12]。馬山方面に進出するが、同年9月に第8軍の反撃が始まると智異山に潜伏。この時、智異山の入り口で先着のゲリラと悶着を起こし、不良ゲリラの発砲により重傷を負ったという[13]。
徳裕山の茂朱九千洞に留まっていたところ、それを聞いた慶南党組織委員は人をやって李青松を迎え入れた[14]。慶南党組織委員は慶南部隊と南海旅団で合同闘争を行い、咸陽郡安義面の役所を攻撃することになった[14]。南海旅団は居昌に通じる機動路を掌握して待ち伏せし、慶南部隊は安義攻撃のための突撃隊を引き受けた[14]。作戦が成功しかかっていたところ、南海旅団が突然撤収したため、警察部隊の攻撃を受けて、慶南部隊は重要な軍事幹部と精鋭の遊撃戦士を何人か失った[15]。南海旅団は退却の責任を問われ、その部門の軍事幹部達が責罰された[15]。
1951年3月17日に第11師団第9連隊第2大隊が射殺した36名のゲリラの中に南海旅団長が含まれていたという[16]。この時、南海旅団政治委員趙正哲らも戦死した。ただし、元パルチザンの李泰(本名李愚兌)は著書『南部軍』の中で、李青松の消極的な態度と、彼が後に全羅南道遊撃隊によって処刑されたとの風聞を伝えている[17][注釈 2]。
人物
編集- 崔泰煥によると、やや自由主義的・民族主義的傾向を持っており、大らかな面貌であったが、一度性質が湧き出ると火のような人だったという[18]。そのような品性と気質のため1948年と1949年にソ連軍顧問官と拳銃を抜いて喧嘩し、降格されて復職した逸話を持つ[18]。
- 1948年春、平壌寺洞飛行場で協奏団員の女性舞踊手が駐留していたソ連軍に強姦される事件が発生すると、憤怒した李青松は拳銃を持って飛行場に行き暴行した者を見つけて大喧嘩を行った[19]。この事件によってしばらくの間、李青松は降格する屈辱に遭わなければならなかった[19]。その後もソ連軍通信顧問官と衝突した[19]。
- 民族保衛省通信部長を務めていた頃、朝鮮の女性をからかったソ連軍人を殴打し、左遷されたという[17]。
- 智異山中では国連軍に投降するでも積極的に遊撃戦を行うでもなく、部下を率いて拠点を転々としていたが、牛の背にまたがって旅団の先頭を行くその姿は「東洋画に描かれた漁師の翁のよう」だったと李泰は表現している[17]。
- 朝鮮戦争緒戦における李青松の指揮を、佐々木春隆は「彼の計画は地形に適合していない点が印象的であった。」と評している[12]。しかし、南侵の作戦計画は全面的にソ連軍事顧問が策定したとされており[20]、第2師団が春川の早期占領に失敗した一因である無謀な敵前渡河についても、ソ連軍事顧問が地形を軽視して机上で作戦を立てた結果ではないかと当時第2軍団工兵参謀だった朱栄福は推測している[21]。李青松の指揮がどの程度主体的に作戦を左右し得たのか、疑問の余地はある。
- アメリカ情報部の情報資料ファイルによれば、ゲリラ戦術と地下工作の知識が豊富であり、狂信的な共産主義者であった。ロシア語は読み書きと流暢に話ことができ、また日本語に通じている[22]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 우동현 2016, p. 23.
- ^ 우동현 2016, p. 71.
- ^ a b c d e f 김선호 (2017). “북한 보안간부훈련대대부의 간부구성과 당・군의 정치연합체제 출현”. 역사문제연구 (역사문제연구소) 38: 275-315.
- ^ 和田 1992, p. 333.
- ^ “직계만 빼놓곤 숙청” (朝鮮語). 中央日報. (1982年3月27日) 2019年1月8日閲覧。
- ^ 東亜日報; 韓国日報 編、黄民基 訳『金日成:その衝撃の実像』講談社、1992年、324頁。ISBN 4062058634。
- ^ “영원한 기념비(2)—쏘련군과 함께 동북에 진출한 항일련군”. 길림신문. (2011年9月21日). p. 3 2021年12月31日閲覧。
- ^ 赤木 2003, p. 10.
- ^ 赤木 2003, p. 21.
- ^ 徐 1995, p. 606.
- ^ 朱 1992, p. 272.
- ^ a b 佐々木 1976, p. 250.
- ^ 朱 1992, p. 374.
- ^ a b c 李 2005, p. 41.
- ^ a b 李 2005, p. 42.
- ^ 韓国国防軍史研究所 編著 著、翻訳・編集委員会 訳『韓国戦争第4巻 国連軍の再反攻と共産軍の春季攻勢』かや書房、2004年、121頁。
- ^ a b c 李 1991, pp. 65–66.
- ^ a b 崔泰煥 1989, p. 53.
- ^ a b c 崔泰煥 1989, p. 56.
- ^ 朱 1992, pp. 198–199.
- ^ 朱 1992, pp. 254–259, 262–266.
- ^ “RG 319, Assistant Chief of Staff, G-2 (Intelligence), Intelligence Document File Publication 1947-62, Entry # 1004H (UD), ID 950054 : ATIS-FEC Interrogation Report, Box No. 335, 950054 KG 1226 - KG 1250, etc.” (韓国語). 국사편찬위원회 전자사료관. 2019年5月12日閲覧。35コマ
参考文献
編集- 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国篇 中 (五〇年春からソウルの陥落まで)』原書房、1976年9月30日。NDLJP:12172909。
- 李泰『南部軍』安宇植、平凡社、1991年。ISBN 4582456022。
- 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年。ISBN 4-58-245603-0。
- 朱栄福『朝鮮戦争の真実 元人民軍工兵将校の手記』悠思社、1992年。ISBN 4-94-642435-0。
- 赤木完爾『朝鮮戦争 休戦50周年の検証・半島の内と外から』慶應義塾大学出版会、2003年。ISBN 4-7664-1038-6。
- 李仁模、シン・ジュニョン 著、小林爽子 訳『韓国獄中34年 元北朝鮮従軍記者の手記 朝鮮戦争従軍、パルチザン、獄中から<希望>へ』社会評論社、2005年。ISBN 978-4-7845-0285-1。
- 최태환,박혜강 (1989). 젊은 혁명가의 초상 - 인민군 장교 최태환 중좌의 한국전쟁 참전기. 공동체
- 우동현 (2016) (PDF). 1945~1950년 재북 소련계 조선인의 활동과 성격. ソウル大学校大学院 2019年1月25日閲覧。.
- 徐東晩 (1995). 北朝鮮における社会主義体制の成立1945-1961. 東京大学. doi:10.11501/3127031.