村尾 重良(むらお しげよし、天正2年(1574年)- 慶長2年(1597年))は、安土桃山時代武将薩摩国島津氏の家臣。通称は与五郎。父は村尾重侯、母は有川右近の娘。弟は村尾重昌

天正2年(1574年)に島津義弘の家臣である村尾重侯の嫡子として誕生する。文禄元年(1592年)19歳のときに、義弘の嫡子である島津久保の供として朝鮮出兵を果たす。しかし、翌文禄2年(1593年)に久保が朝鮮唐島にて病死すると、その亡骸と共に一時帰国する。文禄3年(1594年)、今度は久保の弟である島津忠恒の供として朝鮮に渡海、在陣中の忠孝により1,000石を賜る内意を得ている。

慶長2年(1597年)8月、義弘・忠恒父子が朝鮮の南原城を攻め落とすべく進軍したときのこと、重良ら数人と、同じく南原城を攻めようとしていた蜂須賀家政の手の者7-8人との間で喧嘩(事実上の果し合い)が勃発する。重良はうち一人を組み伏せ、右手を切られながらも左手でその者を討ち果たした。その後、負傷により歩行が困難となり、忠恒の命で輿に乗って行軍することが許されたものの、その傷が元で陣中にて死去した。享年24。

参考文献

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