村瀬 清(むらせ きよし)は江戸時代末期から明治時代にかけての久保田藩士。明治維新後は東京平田神社の創建にたずさわった。

人物略歴 編集

慶応3年(1867年)の王政復古の大号令ののち、出羽国久保田藩(秋田藩)では勤王派の巻き返しが顕著となった。村瀬清は御用人勘定奉行に任じられ、京都滞在を命じられた[1]。いっぽう、江戸定府の久保田藩士であった平田国学の指導者平田銕胤平田篤胤の養子)は村瀬とともに再び京にのぼって、薩摩長州の陣営に加わろうとしたが、合流には失敗した[2]

明治11年(1878年)、銕胤の子の平田胤雄平田延胤弟)が東京柳島横川町(現、東京都墨田区)にあった平田屋敷邸内社の平田神社を正式な神社として認めてもらうよう、東京府知事楠本正隆に宛てて上申書を提出したとき、名を連ねた19名のなかに村瀬の名がある[3][注釈 1]。創建運動は実り、1881年(明治14年)11月、明治天皇の下賜金をもとに東京小石川第六天町(現、東京都文京区)に遷座した(現在は渋谷区代々木に遷っている)[4]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 19名のうち、旧久保田藩士は、村瀬のほか高瀬美佐雄、三木鉄弥(平田銕胤次男)、平田胤雄の4名であった。畑中(2015)p.165

出典 編集

参考文献 編集

  • 畑中康博 著「秋田藩維新史における「砲術所藩士活躍説」の誕生」、渡辺英夫編 編『秋田の近世近代』高志書院、2015年1月。ISBN 978-4-86215-143-8 
  • 歴史スペシャル編集部 編『ビジュアル幕末1000人』世界文化社、2009年12月。ISBN 978-4-418-09234-5 
  • 国安寛・柴田次雄・渡部綱次郎ほか『近世の秋田』秋田魁新報社、1991年11月。ISBN 4-87020-088-0