メインメニューを開く

松田 源治(まつだ げんじ、1875年(明治8年)10月4日 - 1936年(昭和11年)2月1日)は、日本弁護士政治家衆議院議員(当選9回)。族籍は大分県平民[3][4]拓務大臣文部大臣、衆議院副議長を務めた。

松田 源治
まつだ げんじ
Genji matsuda.jpg
生年月日 1875年10月4日
出生地 大分県宇佐郡柳ヶ浦村[1]
没年月日 (1936-02-01) 1936年2月1日(60歳没)
出身校 日本法律学校卒業[2]
前職 弁護士
所属政党立憲政友会→)
政友本党→)
立憲民政党
テンプレートを表示
松田源治

来歴編集

大分県出身。松田録兵衛の二男[3]。家は貧しく学資はなく、郷里で小学代用教員や電信技手をつとめた[1]1894年(明治27年)、上京した[1]日本法律学校(現日本大学)卒業[2]文官高等試験並びに判検事登用試験に合格[3][4]。司法官試補を命ぜられ[3]福岡佐賀等の区裁判所に勤務したが、勤続僅かに8ヶ月で官を退き、上京し弁護士となる[1]

1908年(明治41年)に第10回総選挙に大分県郡部から立候補して初当選。初め立憲政友会に入る。1915年(大正4年)3月の第12回総選挙では次点で3選を逃すが、同じ選挙区で最下位当選した政友会の成清博愛が同年11月に辞職したため繰り上げで補欠当選した。1924年(大正13年)に政友会を離党して政友本党結成に参画。1927年(昭和2年)、政友本党が憲政会と合同して立憲民政党を結成するとそれに参画した。

1929年(昭和4年)、濱口内閣拓務大臣を拝命して初入閣。1934年(昭和9年)、岡田内閣文部大臣に就任し2回目の入閣を果たした。1936年(昭和11年)2月1日午後、松田は東京帝大に赴き医学部内科物理療法学教室の三十周年記念祝典に出席、そのついでに創設者の真鍋嘉一郎教授直々の健康診断を受けたところ、心臓が肥大しているので注意するよう言われた。ところがそのわずか3時間後に突如心臓麻痺を起こして急死、満60歳だった。

人物編集

18歳から独立独行、父兄より学資の支給を受けたことはなく、自活の余暇勉強した[1]。松田によると成功の最大要件は「自制、克己、修養、至誠、以て奮勉努力するにあり」という[1]

文部大臣就任から間もない頃に「近頃、家庭でパパだのママだのという言葉がはやっているようだが、もってのほかだ。日本語を使ってお父さん、お母さんと呼ばないから日本古来の孝道が廃れるのだ」といった内容を語ったことが報じられ、議論を呼んだ。翌年には日本美術展覧会が運営を巡って紛糾する原因になる「松田改組」を強行している。

栄典編集

家族・親族編集

松田家 

大分県宇佐郡柳ヶ浦村、東京市麹町区五番町[3][4]

1870年 -
  • 同妻・カツ(大分、古庄一松の妹)[3][4]
1876年 -
1886年 -
1881年 -
  • 姉・キエ(大分、江上春次郎の養子)[3][4]
1872年 -
  • シゲ(大分、武久敬一郎の妻)[3][4]
1883年 -
  • ソウ(東京士族、酒井静雄の弟・早雄の妻)[3][4]
1891年 -
1888年 -
1913年 -
1917年 -
  • 長女・清子[3]
1911年 -
1915年 -

出典編集

  1. ^ a b c d e f 『大分県人士録』312-315頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月10日閲覧。
  2. ^ a b 『日本大学校友会会員名簿 昭和3年6月現在』マ217頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月9日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『人事興信録 第6版』ま33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月9日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信録 第7版』ま37頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月11日閲覧。
  5. ^ 『官報』第779号「叙任及辞令」昭和4年8月3日

参考文献編集

  • 『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 日本大学校友会編『日本大学校友会会員名簿 昭和3年6月現在』日本大学校友会、1928-1933年。

外部リンク編集