板垣退助暗殺未遂事件
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板垣退助暗殺未遂事件(いたがきたいすけあんさつみすいじけん)とは、板垣退助を標的として策謀された計6回の暗殺未遂事件。便宜上「乾退助」名義であった時代のものも列記する。
- 文久3年乾退助暗殺未遂事件 – 1863年(文久3年)、京都で土佐勤王党が乾退助(板垣退助)の暗殺を企てた事件[1]。前年に起きた広田章次暗殺事件と、坂本瀬平刃傷事件に憂慮し、山内容堂が土佐勤王党を遠ざけ乾退助に命じて「上士勤王隊」を組織させたことに対する危機感が原因[2]。同年1月、池内大学が暗殺されたのち乾退助が標的とされた。しかし、4月に乾が失脚し、八月十八日の政変の後、中岡慎太郎が乾退助に会見して交誼を結ぶ。薩土討幕の密約をへて両者は合併し士格別撰隊が組織され、のち土佐藩迅衝隊として戊辰戦争をともに戦う同志となった。- 退助27歳
- 明治元年板垣退助暗殺未遂事件 - 1868年5月22日(明治元年閏4月1日)、戊辰戦争時日光東照宮での談判に際し、光栄坊に潜伏した旧幕側残置諜者10名が東山道総督府参謀(土佐藩迅衝隊総督)である板垣退助の暗殺を企てた事件。(犯人は6名死亡、3名逃亡、1名捕縛)- 退助32歳
脚注
編集- ^ 板垣退助『維新前夜経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』127頁
- ^ a b c d 『何度も繰り返し起きた板垣退助暗殺未遂事件 -板垣はいかにこれらの窮地を切り抜けたか-』一般社団法人板垣退助先生顕彰会
- ^ 『岐阜県上申自由党綜理板垣退助遭害ノ件・自第一号至第五号』
- ^ 宇田友猪『板垣退助君傳記(第2巻)』原書房、2009年、914 - 917頁
- ^ 『東京日日新聞』明治24年10月21日附
- ^ 『無形板垣退助』平尾道雄著、高知新聞社、昭和49年7月1日、240-242頁
- ^ 平尾道雄の著書では「金山栄次郎」とあるが、その基となった『東京日日新聞』では「金山米次郎」のため、これに遵う。
- ^ 『板垣退助君傳記(第3巻)』宇田友猪著、原書房、289-290頁