柴田勝興

日本の江戸時代前期~中期の武士・歌人。江戸幕府旗本柴田勝重の子で、旗本柴田氏2代当主。御書院番・先手鉄砲頭を勤める

柴田 勝興(しばた かつおき)は、江戸時代前期の江戸幕府旗本歌人でもあった。

 
柴田 勝興
時代 江戸時代前期
生誕 慶長17年(1612年
死没 天和2年10月29日1682年11月28日
別名 山三郎、三左衛門[1]
戒名 悠山[1]
墓所 東京都三鷹市春清寺[1]
幕府 江戸幕府
氏族 柴田氏
父母 父:柴田勝重、母:織田長政の娘[1]
兄弟 勝興三浦信勝勝平行重勝昌佐久間甚九郎の妻、奥山重次の妻、飯高貞勝の妻[1]
神尾元勝の娘
勝門筑紫茂門の妻、神尾元知の妻
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生涯

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父は幕臣柴田家初代の柴田勝重。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、母は勝重の後妻である織田左衛門佐長政の娘[1][注釈 1]

元和6年(1620年)、徳川家光に9歳で拝謁[1]。寛永9年(1632年)、父の死去により家督を継承し、のちに書院番となる[1]。寛文3年(1663年)、薩埵峠の道路改修の奉行を務めたことで賞される[1]

寛文5年(1665年)より先手鉄砲頭を務め[1]布衣を許される[1]

延宝8年(1680年)に致仕し、養老料として300俵を給される[1]。天和2年(1682年)に71歳で死去[1]

歌人であり、『柴田勝興富士百首』を著している[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし織田家側の家譜には、長政の娘が勝重に嫁いだという記載がない[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1105
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.579-580
  3. ^ a b 柴田勝興”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年8月30日閲覧。

参考文献

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