桑原 盛員(くわはら もりかず、享保6年(1721年) - 寛政12年2月24日1800年3月19日[1])は、江戸幕府旗本桑原盛興の子。勝之助、主馬、善兵衛。官位は、従五位下、能登守のちに伊予守。室は蘆谷久弥の娘。継室は太田安信(酒井雅楽頭家臣)娘。子女は桑原盛倫室、朝比奈良高室、丸毛利邸室、本目正良本目正広養子)、養女(松平忠恒の娘)ら[2]

元文3年(1738年)5月4日、父の遺跡を継ぐ(家禄500石)。寛保元年(1741年)10月28日西の丸書院番となり、宝暦2年(1752年)11月21日より進物番となった。宝暦10年(1760年)7月21日小十人頭となり、7月24日布衣を着ることを許される。宝暦13年(1763年)9月28日目付となる。明和7年(1770年)将軍徳川家治の日光参拝に際して街道筋の検査を行い、安永元年(1772年)には日光の神橋の修復に携わる。安永2年(1773年)7月18日に長崎奉行を拝命、12月16日に従五位下能登守に叙任された。安永4年(1775年)11月17日に作事奉行となり、安永5年(1776年)7月8日には勘定奉行に進んだ。天明7年(1787年)12月5日、買米のことで怠慢とされ一時出仕を止められ、天明8年(1788年)1月25日に赦免される。天明8年(1788年)11月15日に大目付となった。寛政10年(1798年)に西の丸留守居となった[2]

寛政12年(1800年)2月24日、80歳で死去[1]。家督は同年閏4月4日、娘婿の盛倫松前順広三男)が継いだ[3]

脚注

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  1. ^ a b 諸星美智直「地方・町方の吟味控類とその言語」(『野州國文學』第43号、國學院大學栃木短期大學國文學會、1989年3月、p.23)
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜 第8輯』国民図書、1923年、pp.897-898。
  3. ^ 文恭院殿御実紀」寛政12年閏4月4日条(『国史大系 第48巻 新訂増補』国史大系刊行会、1933年、p.433)

参考文献

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