梁 敦彦(りょう とんげん)は、清末民初の政治家。北京政府の要人で、交通系の一員とみなされる。後に張勲復辟にも参加した。菘生

梁敦彦
プロフィール
出生: 1857年咸豊7年)
死去: 1924年民国13年)5月10日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 広東省広州府順徳県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 梁敦彥
簡体字 梁敦彦
拼音 Liáng Dūnyàn
ラテン字 Liang Tun-yen
和名表記: りょう とんげん
発音転記: リャン ドゥンユエン
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梁敦彦
梁敦彥
梁敦彦
生年月日 1858年11月7日
出生地 広東省広州府順徳県
(現中華人民共和国の旗 中華人民共和国 広東省広州市順徳区)
没年月日 (1924-05-12) 1924年5月12日(65歳没)
死没地 中華民国の旗 中華民国 天津
(現中華人民共和国の旗 中華人民共和国 天津市)
出身校 イェール大学
称号 瑞宝章

(張勲復辟)
内閣議政大臣
外交部尚書
内閣 張勲内閣
在任期間 1917年7月1日 - 1917年7月12日
皇帝 宣統帝

内閣 第1次徐世昌内閣
第2次陸徴祥内閣
第2次徐世昌内閣
在任期間 1914年5月1日 - 1916年4月22日


外務部大臣
内閣 慶親王内閣
袁世凱内閣
在任期間 1911年5月8日 - 1912年2月12日
皇帝 宣統帝


外務部尚書
在任期間 1908年 - 1910年
皇帝 宣統帝
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事跡

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香港中央書院を卒業。1872年同治11年)に初のアメリカ公費留学生となる。1878年光緒4年)、イェール大学に入学した。1881年(光緒7年)、米中間に中国人労働者使用問題が発生したため、これに憤った清朝の命令により、梁敦彦は帰国した。

当初は福州船政学堂に派遣されたが、まもなく天津北洋電報学堂の英文教習(教官)に転じた。1884年(光緒10年)、張之洞の招聘に応じ、両広、湖広督署の文案、知州府候補道をつとめた。1904年(光緒30年)4月、駐米兼駐日、秘、古欽差大臣に任命された。しかし、署外務部侍郎として留まり、任地には赴かなかった。9月、外務部右侍郎に任ぜられる。また同年中に、イェール大学から学士位と卒業認定を授与された。

1909年宣統元年)1月、署外務部会弁大臣兼尚書に昇格し、翌月には正式に同職に任ぜられた。翌年3月、会弁税務大臣を兼任し、7月には弼徳院顧問大臣も兼ねた。しかし、まもなく病気のため一時辞職している。1911年(宣統3年)5月、外務部大臣となる。7月には再び弼徳院顧問大臣を兼ねた。10月、袁世凱内閣の外務部大臣に任命され、ドイツ・アメリカの両国に派遣されている。なお、この際に、イェール大学から名誉博士号を授与された。

中華民国成立後の1913年民国2年)、北京政府総統府から政治会議議員に任じられた。翌年5月、徐世昌内閣で交通総長に起用され、交通系の要人とみなされる。1916年(民国5年)4月、段祺瑞内閣の途中で、交通総長を辞任した。

1917年(民国6年)7月、張勲復辟に際して、梁敦彦は内閣議政大臣兼外交部尚書に任命された。しかし、復辟は短期間で失敗に終わる。梁もその主犯の1人として指名手配されてしまい、天津に逃げ込んだ。翌年、指名手配を解除されたものの、政界には復帰せず、天津に寓居を続けている。

1924年(民国13年)5月10日、天津にて死去。享年68。

参考文献

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清朝派遣アメリカ留学生集合写真。左から2番目が梁敦彦
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  
先代
袁世凱
外務部尚書
1908年 - 1910年
次代
鄒嘉来
先代
鄒嘉来
外務部大臣
1911年 - 1912年
次代
-
   中華民国北京政府
先代
朱啓鈐
交通総長
1914年5月 - 1916年4月
次代
曹汝霖
   張勲復辟
先代
(創設)
内閣議政大臣
兼外交部尚書
1917年7月
次代
(廃止)