楊 謙[1](よう けん、生年不詳 - 347年)は、東晋軍人。出身は不明。東晋の勢力拡大に貢献したが、最期は益州で反乱軍に討ち取られた。

生涯 編集

東晋に仕え、征西大将軍陶侃の督護に任じられていた。

咸和3年(328年)9月、陶侃の命により、石頭に拠る驃騎将軍蘇峻を攻めた。

咸和5年(330年)10月、成漢の大将軍李寿・征南将軍費黒が巴東建平に侵攻した。巴東・建平を攻略され、巴東郡太守に任じられていた楊謙は、監軍毌丘奧とともに宜都へ退いた。

建元元年(344年)9月、成漢の将の申陽を撃ち、これを敗走させ、将の楽高を捕えた。

永和3年(347年)4月、先に反乱を起こしていた鄧定・隗文らが再び反乱を起こして成都に拠った。征虜将軍に任じられていた楊謙は涪城を棄て、徳陽に退いた。

12月、征西督護[2]蕭敬文が反乱を起こし、涪城を攻めた。楊謙は敗れ、討ち取られた。

脚注 編集

  1. ^ 『晋書』巻58, 周撫伝では、楊謹と記されている。
  2. ^ 『晋書』巻8, 穆帝紀では、振威護軍と記されている。

参考文献 編集