橋本麗子

日本の明治時代の公家

橋本 麗子(はしもと れいこ)は、幕末から明治時代の公家女性。

 
橋本 麗子
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 天保6年6月12日1835年7月7日
死没 明治22年(1889年3月7日[1]
別名 大納言典侍
戒名 天瓔院淳唐昌和興仁大禅定尼
墓所 青山霊園
官位 従四位上、大納言典侍
主君 和宮親子内親王
氏族 橋本家
父母 父:橋本実麗、母:静子萩原員維の娘)
兄弟 実梁麗子松子
夏子房子
テンプレートを表示

橋本実麗の娘。義兄に橋本実梁。同母妹に池尻胤房の正室橋本松子。子に明治天皇権典侍橋本夏子。また、叔母・橋本経子(観行院)は仁孝天皇典侍和宮の生母であり、麗子は和宮の従姉に当たる。

生涯 編集

和宮の江戸降嫁に従い、江戸に下ったと言われる。その際、大叔母である姉小路(勝光院)に推挙され、大奥になど行きたくないと反発するも、結局大奥へ下らされたとも言われている。大奥では、庭田嗣子絵島土御門藤子鴨脚克子らと共に天璋院実成院と激しく対立した。役職は庭田嗣子らと同じ上臈上座であった。

顔は容姿端麗とする書物もある。和宮の死後、京へ戻り、明治22年(1889年)に死去した。

結婚と離婚 編集

従四位少納言東坊城夏長正室となるが、のちに離縁する。離縁の理由は廷臣八十八卿列参事件からだといわれている。また、男子がなく、養子東坊城任長をとった。しかし本当は橋本夏子は2人の娘(次女)であり、夏子が生まれた翌年(廷臣八十八卿列参事件の翌年)に夏長が死去し、夏長の弟、任長が家を継いだので麗子と夏子は橋本家に戻り、夏子を父の養女にし、和宮の女官として大奥に下った。その後、夏子は実麗の実子として宮仕えする。また、麗子の長女は東坊城房子である。

一族縁者 編集

脚注 編集

  1. ^ 国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.277

出典 編集

登場作品 編集