櫛引城

青森県八戸市にあった城

櫛引城(くしびきじょう)は、青森県八戸市にあった日本の城

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櫛引城
青森県
城郭構造 平城
天守構造 不明(非現存)
築城主 四戸氏
築城年 不明
主な城主 櫛引氏
廃城年 天正20年(1592年
遺構 曲輪、堀
指定文化財 史跡等未指定[1]
埋蔵文化財
包蔵地番号
青森県No.203150「櫛引遺跡」[2]
位置 北緯40度28分38.8秒 東経141度25分56.3秒 / 北緯40.477444度 東経141.432306度 / 40.477444; 141.432306座標: 北緯40度28分38.8秒 東経141度25分56.3秒 / 北緯40.477444度 東経141.432306度 / 40.477444; 141.432306
地図
櫛引城の位置(青森県内)
櫛引城
櫛引城
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概要 編集

八戸市櫛引八幡宮から南に2キロメートルの地点にあたる現在の八戸市大字櫛引字館神に存在していた平城。城郭の規模は横600メートル、縦1400メートルである。跡地には櫛引薬師如来堂がある。

馬淵川の東の岸に接する丘陵の上にあり、西は断崖に、他の三方は支谷という地形になっている。地形に恵まれた堅牢な要害だが、出丸の強度が低いことと、南方が丘陵続きになっていることが弱点であった。この弱点を補う為に、城の南方には一族の支城が築造されていた。

構造 編集

城の周辺の道には、坂牛を経由して根城へ続く本道、通清水から鴨平を経由して南郷村嶋守へ続く嶋守道、矢倉、福田を経由して名久井へ続く名久井道があった。城下町は通清水と城を繋ぐ道路の途中に並んでいた。

遺構はチャシ形式の本郭、侍屋敷などを含む外郭、堀を挟んで本郭の北の高台にある「今館」と呼ばれた出丸の三つに大別される。出丸の北方には現在は埋めたてられてしまったが掘割があったと言われる。

歴史 編集

築城年間は不明。櫛引氏の居城。

最初は根城南部氏に仕えていたが、南部守行の統治の頃には三戸南部氏を主と仰いでいた。永禄10年(1567年)、櫛引氏が八戸政栄の留守中にその所領を侵略し、近隣に放火したため、元亀2年(1571年)、八戸氏の軍勢によって櫛引城は攻撃を受けた。東政勝が櫛引氏を支援したものの、櫛引勢は降伏した。

天正19年(1591年)の九戸政実の乱に際し、当主櫛引清長と弟清政は九戸方に加担し、浅水城苫米地城根城是川館の諸城館を攻撃したあとに九戸城に入城するが、豊臣秀次に率いられた奥州再仕置軍によって打ち取られ、清長は戦死、清政は九戸政実とともに降伏し、三迫松尾村で斬首されて櫛引氏は滅亡、櫛引城もまた根城南部氏の攻撃を受けて敗れ去った。

天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には「櫛引 平城 破 代官 桜庭 将監」とあり破却された。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 青森県百科事典(東奥日報社

関連項目 編集