櫛橋 伊家(くしはし これいえ)は、戦国時代播磨国武将。播磨志方城主。

 
櫛橋 伊家
時代 戦国時代
生誕 文明9年(1477年
死没 天文10年(1541年
別名 通称:左京亮
戒名 悦道義勧大居士
墓所 観音寺兵庫県加古川市
主君 赤松義村晴政
氏族 櫛橋氏
父母 櫛橋則伊
兄弟 伊家則高?、小寺則職室?
伊定
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人物編集

播磨櫛橋氏7代目当主で、6代目当主・櫛橋則伊の長男として生まれる。父・則伊は播磨守護赤松氏の重臣として活躍したが、伊家の代になると活動の記録は極端に乏しくなる。またこの時代になると櫛橋豊後守則高[1]という人物が赤松氏の奉行人として登場するが、この則高が伊家とどのような関係に当たる人物なのかは明らかではない[2]

天文10年(1541年)病を得て急死。この時、嫡男の伊定はまだ15歳であったため、櫛橋家の執政は家臣の好田大炊助が執ったとされる。なお後の福岡藩祖・黒田孝高に嫁した櫛橋光を伊家の娘とする系図史料[3]もあるが、生年などとの整合性はとれない[4]

脚注編集

  1. ^ 天文5年6月19日1536年7月17日)に没している事が過去帳からわかる。なお通称の「豊後守」は、後に息子の伊定のほか、父・則伊、曾祖父・伊高も称している。
  2. ^ 伊家の弟とも、赤松氏系櫛橋氏の末裔ともする説もあるが史料上の裏付けは取れない。
  3. ^ 観音寺所蔵「櫛橋之記」
  4. ^ 『黒田家譜』をはじめ、一般的には嫡男・伊定の娘、即ち伊家の孫にあたるとされる。

参考文献編集

  • 山下道雄「播磨の豪族 櫛橋氏」『播磨と歴史』第23巻第3号
  • 「書写山十地坊過去帳」『続群書類従』第三十三輯下
  • 貝原益軒『黒田家譜』