水谷琢順(みずたに たくじゅん、生年不詳 - 嘉永3年(1850年)は、囲碁棋士本因坊元丈門下、六段。本因坊家の外家である水谷家の二代目で、初代水谷琢元の実子。

寛政10年(1798年)に奥貫智策に白番勝の碁があり、智策、本因坊丈和らより年長の兄弟子と見られる。寛政12年に五段の中野知得に二子で、この頃に入段、文化元年(1804年)に七段の元丈に二子で三段ぐらいと思われる。文化4年に知得に二子、文化5、6年に先二二子番でいずれも勝ち。文化7年に五段で、葛野丈和(本因坊丈和)に向先相先。文化11年に四段の服部立徹(井上幻庵因碩)に向先相先、文政8年(1825年)には井上幻庵因碩と六段同士の互先で先番勝2局。元丈と12局、丈和と13局、幻庵因碩と13局など、計95局の棋譜が残されている。伊藤周介、琢元とともに本因坊門の三傑と称された。また彦根藩井伊家より七人扶持を受けた。

高橋順英(水谷琢廉)を養子とするが、琢廉は六段まで昇りながら天保7年(1836年)頃に32歳で夭逝。次に坊丈和の長男戸谷梅太郎(吉野忠左衛門)を迎え水谷順策とするが、順策は天保15年に幻庵因碩に請われて井上家養子となり、井上秀徹(後の十二世井上節山因碩)となる。琢順は後継者を決められないまま没し、水谷家は途絶える。その後明治になって、方円社の水谷四谷にて再興された。

参考文献編集

  • 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
  • 福井正明「秘譜紹介 名門水谷家」(『棋道』1987年10月号)
  • 矢田直己『秘譜発掘』誠文堂新光社 2004年

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