深町錬太郎
日本の逓信・内務官僚
深町 錬太郎(ふかまち れんたろう、1871年3月17日(明治4年1月27日[1])- 1918年(大正7年)9月25日)は、明治後期から大正前期の逓信官僚、内務官僚。官選愛媛県知事。
経歴
編集加賀国金沢下高儀町で加賀藩士深町鉄五郎の長男として生まれる[1][2]。第四高等学校を首席で卒業。1896年(明治29年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。逓信省に入省し通信局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格[1][2][3]。
1897年(明治30年)逓信事務官となる。以後、通信事務官、鹿児島郵便電信局・大阪郵便電信局・札幌郵便電信局の各勤務を歴任。1899年(明治32年)内務省に転じ、愛知県事務官、茨城県事務官、栃木県事務官、新潟県事務官・内務部長[4]を務めた[1][2]。
第3次桂内閣により1912年(大正元年)12月30日、愛媛県知事に登用された。松山中学校の移転問題を解決。前任知事より引き継いだ継続治水事業計画を20か年継続治水事業として計画を策定し事業に着手した。一方、県会などに対して高圧的な態度で臨み、そのため県会で弾劾決議案が可決されたり、産米検査の強行により農民反対運動の激化を招いた[1][2]。
1916年(大正5年)4月28日、知事を休職し[5]、1917年(大正6年)4月21日、病気により依願免本官となり退官した[1][6]。
1918年(大正7年)6月28日に加賀製紙の第6回定時株主総会で補欠選挙により監査役に選任されるが、同年9月25日に現職のまま死去[7]。
栄典
編集脚注
編集- ^ a b c d e f 『愛媛県史 人物』522頁。
- ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』919頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』176頁。
- ^ 『官報』第7522号、明治41年7月23日。
- ^ 『官報』第1121号、大正5年4月29日。
- ^ 『官報』第1415号、大正6年4月23日。
- ^ 松本和明「1910年代における加賀製紙の事業展開 -中島徳太郎の企業者活動(Ⅲ・完)-」『長岡大学研究論叢』第16巻、長岡大学地域連携研究センター、2018年8月、45-59頁、CRID 1050572244968504704、ISSN 1883-1583、2024年2月1日閲覧。
- ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年。